“好きなタレント調査”で、8年連続1位になった。「唯一天下をとった女芸人」と呼ばれた山田邦子。55歳になった今、バラエティ番組で観ることは減った。しかし、テレビが活気で満ちあふれていた1980年代から90年代にかけては、山田をテレビで観ない日はなかった。

 全盛期に抱えたレギュラー番組は、14本。つねに多忙だったため、テレビ各局には山田専門の仮眠室が設けられたほどだ。85年には、ストレスからの円形脱毛症に悩み、坊主頭になって世間をアッと驚かせた。月収は、大きな紙袋2つ分。手渡しでもらった給与は、ン千万円。それが、何年も続いた。当然その記録は、所属する太田プロダクションの女性タレントで、誰も抜いていない。

 山田の名を一気に知らしめたのは、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系/81年〜89年)。芸人といえば男性至上主義だった当時のバラエティ界で、山田は“ひょうきんベストテン”の名司会で開花し、芸でてっぺんを獲った。その余波で89年にスタートしたのが、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジ系)だ。「山田」と「いまだかつてない」に由来している造語は、“やまかつ”と呼ばれた。

 同番組が一般のバラエティと比べて異質だったのは、レギュラーメンバーだ。森口博子を本格的なバラエティアイドル=バラドルに仕立てあげたのをはじめ、番組初期には、ミュージシャンの大江千里、元体操選手の森末慎二、女優の高岡早紀、大物俳優の高橋英樹、外国人タレントのオスマン・サンコンやジョン・ムルアカなど、笑いに不慣れなメンバーをあえて揃えた。

 やがて、ジャンルの枠を音楽にも拡充。まずは、Wink・相田翔子が準レギュラーだったこともあり、企画“日本全国早智子を探せ”を始動させた。そこで合格した横山知枝をパートナーにして、Winkのパロディ・やまだかつてないWinkを結成。90年7月には、『T intersection〜あなたに戻れない〜』で歌手デビューをはたした。さらに、翌91年には、卒業ソング『さよならだけどさよならじゃない』も発表し、いずれもヒットさせた。これがのちに、同番組が「ヒットメーカー生産工場」と呼ばれる礎となった。まず、頭ひとつぶん飛び抜けたのは、番組で結成した“やまだかつてないバンド”のコーラスを務めていた永井真理子だ。

 “やまかつ”のオープニングに起用された『ZUTTO』は、最終的に40万枚を超えるヒットとなった。しかし、この曲、リリース予定の『EVERYTHING』のカップリングだった。フジからのオファーに、永井サイドは当然、“A面”の『EVERYTHING』を推した。ところが、番組側は「カップリングを使いたい」と言う。最終的に、永井サイドが“B面”を許可したことが幸いし、この歌がヒットした。

 そんな永井を超えるヒットメーカーが誕生したのは、翌91年。火付け役は、KANだ。アルバム『野球選手が夢だった。』の収録曲にすぎなかった『愛は勝つ』が、“やまかつ”のエンディングテーマに起用。ジワジワ人気に火がつき、シングル化されると、200万枚を超えるミリオンセラーになった。オリコンヒットチャートランキングに52週も入り、『第42回NHK紅白歌合戦』にも出場した。

 まさかのミリオン歌手を輩出した“やまかつ”。勢いはその後もとどまるところを知らず、次に、大事MANブラザーズを生んだ。すでにメジャーデビューはしていたものの、それまでの2枚はヒットにほど遠かった大事MAN。3枚目となった『それが大事』が売れなければ、レコード会社から解雇をニオわされていた。背水の陣で出した同曲は、“やまかつ”のテーマソングに起用。すると、人気に火がつき、週間ヒットチャートランキングでトップを獲得。以降、4カ月近くもベスト10内に食いこみ、160万枚以上を売った。92年のシングルCD売り上げランキングでは、2年前の永井と同じく、4位という健闘ぶりだ。

 一般人を檜舞台に立たせ、芸能人のキャラ開花に役立ち、くすぶっていた音楽家の前途を明るく照らし、あげくに、みずからも輝いた山田と、そのファミリー。山田のようなクイーン・オブ・クイーンは、おそらくこの先、現れることはないだろう。

(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)

【記事提供:リアルライブ】
情報提供元: リアルライブ