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英国のケンブリッジ大学で行われた研究によって、世界で初めて昆虫の完璧な「全脳マッピング」が行われました。
この研究はより高度な動物の全脳マッピングを行うための足がかり的なものですが、小さな昆虫の脳でも、全てのニューロンとシナプスを特定するのは極めて困難な作業です。
研究者たちはこの研究に、実に12年の歳月をかけたといいます。
一体、全脳マッピングという研究はどのようにして行われ、この成果はどのように今後の世界を変えていくのでしょうか?
研究内容の詳細は研究内容の詳細は2023年3月10日に『Science』に掲載されました。
目次
現在、脳に存在するニューロンやシナプスの正確な位置情報を得るには、脳を薄くスライスしたものを電子顕微鏡で何枚も観察し、地道に全体像を描くという方法がとられています。
ただこの作業は非常な労力を必要とするため、現時点で脳全体のマッピングが完成しているのは、脳細胞数が最大でも数百ほどの線虫・ホヤの幼生・海洋性環形動物の幼虫の3種に限られていました。
またこれら3種の脳は昆虫や哺乳類のように左右に別れた脳構造をしておらず、極めて単純な作りになっています。
単純な作りであることは調査する上では利点になりますが、単純であるほど性能が限定され、私たち人間の脳からは遠い存在になってしまいます。
そこで今回、ケンブリッジ大学の研究者たちは、ハエの幼虫の脳のマッピングに挑みました。
ハエの幼虫の脳にはニューロンが3013個、シナプスが54万4000個ほどしか含まれていませんが、人間と同じような学習や記憶の仕組みを持ち、価値計算や意思決定など基本的な機能を備えています。
またハエの幼虫の脳は成虫の脳と構造が酷似しており、人間と同じ左右に別れた複雑な形状をもっています。
つまり基礎的な脳機能を解明するのにハエの幼虫の脳は最適な教科書となるわけです。
そこで研究者たちは、毎日のように、ひたすら幼虫の脳をスライスし、ニューロンの位置とシナプスの結合位置を1つ1つ、手作業で確かめていきました。
そして12年後……
ついに上の動画が示す、ハエの幼虫の全能マッピングが完成します。
上の膨らんだ部分が右脳と左脳であり、後ろに伸びる線が体の他の部位へつながる神経となっています。
しかしこの全能マッピングは「地道な作業の集大成」以上の驚きを研究者たちにもたらしました。
たとえば、上の図のように、ニューロンは長い軸索と呼ばれるワイヤーを伸ばして信号の発信を行い、樹状突起と呼ばれる細かく枝分かれしたワイヤーで信号の受信を行うと考えられがちです。
しかし全能マッピングの結果、軸索➔樹上突起で連結されているものは接続全体の66.4%に過ぎず、軸索➔軸索が26.4%、樹上突起➔樹上突起が5.4%、樹状突起➔軸索が1.8%と、4タイプの接続が混在していることがわかりました。
これまで軸索➔樹上突起以外の3種類の接続はマイナーな存在であると考えられていましたが、全脳マッピングを行ったことで3種が全接続の3割を占めていたことが判明したのです。
さらに、なかには4つ全てのタイプの接続を同時に行っているニューロンも存在しており、非標準の接続形態が全脳にわたって存在していることが示されました。
接続形態の違いが信号伝達の質にどのような影響を及ぼすかについては、これからの研究テーマになるでしょう。
また研究者たちが接続形態に応じてニューロンの分類を行ったところ、93種類のニューロンが存在することが明らかになりました。
これまでニューロンは主に見た目の特徴によって分類されており、機能についてはあまり考慮されてきませんでした。
しかし接続形態による分類が可能になったことで、同じ名前が付けられていたニューロンたちの違いについて調べる研究も盛んになっていくでしょう。
今回の研究ではある地点から発せられた信号が脳全体にどのように伝播するかを追跡するためのアルゴリズムも開発されました。
研究者たちがこの仕組みを使って信号を追跡したところ、脳の片側にあるニューロンに対する刺激が、もう片方の脳にある神経細胞に、脳全体を横切るように信号を送っていることが示されました。
また信号の追跡を繰り返していくと、脳内のニューロンの41%が信号の反復ループに参加しており、入力された信号が出力先から再度上流から入力されている様子が明らかになりました。
特に学習に関連する脳回路では反復性が著しくなっていることがわかりました。
研究者たちは学習という現象の背後には、信号を繰り返し反復させるためのループ構造が存在しており、このループ構造の存在が脳に情報を保存する「記憶」の基礎的な仕組みになっていると結論しました。
しかし最も興味深かったのは「ショートカット接続」の存在でした。
現在の最先端の人工知能には処理過程をスキップするようなショートカット接続を形成することで、計算能力を向上させることに成功しています。
今回の研究では、ハエの幼虫の脳にも同様のショートカット接続が存在していることが示されており、人工知能と同様に処理速度向上に貢献していると予測されました。
どうやら生物の脳も人工知能も処理速度向上のために、同じトリックをつかっていたようです。
研究者たちは全能マッピングから得られる知識は、人間の学習法の効率化やより高性能な人工知能の開発に活かせるはずだと述べています。
もし今後、全能マッピングが人間を含む高度な動物でも実現すれば、仮想空間の動物や人間型NPCたちを、彼ら自身の脳によって動かすことができるようになるかもしれません。
参考文献
1st complete map of an insect’s brain contains 3,016 neurons元論文
The connectome of an insect brain