何代もの代替わりでその名が永く継承されるクルマもあれば、一代限りで途絶えてしまうクルマもある。そんな「一世一台」とも言うべきクルマは、逆に言えば個性派ぞろい。そんなクルマたちを振り返ってみよう。
ホンダのF1撤退で常に登場してくるものとは?
本年(2020年)10月2日、ホンダはFIA フォーミュラ・ワン(F1)世界選手権への参戦終了をアナウンスした。四度目となる今回の撤退理由は、「最重要課題である環境への取り組みとして、持続可能な社会を実現するために“2050年カーボンニュートラルの実現”を目指す」ためとしている。つまり「燃料電池車(FCV)やバッテリーEV(BEV)など、将来のパワーユニットやエネルギーについての研究開発に経営資源――自社のヒトやカネ、モノ――を集中させるため、F1に使う余力はないのでお休みします」ということだ。
遡れば1968年、1回目の“撤退”の理由は、大気汚染に対する市販車用低公害型エンジン(後のCVCCエンジン)の開発へ経営資源を集中させるためだった。そもそも創業者たる本田宗一郎氏は「水も空気も汚さず、ホンダの工場から出て行くのは車だけだ」という断固たる環境理念の持ち主であった。低公害エンジンの完成なくしてはホンダどころか世界中の自動車メーカーが苦境に陥りかねないという自動車業界全体の危急存亡の時に、この決断は十分に納得の行くものであった。
1992年の2回目と2008年3回目の事はひとまず置いておき、今回、2020年の4回目は将来のパワーユニットやエネルギーについての研究開発のためだ。2040年とも2035年とも言われる欧州の完全ゼロエミッション化を見据えて新世代自動車を開発し、世界中の多くのユーザーに「十分に実用に足る」という評価を得る製品を完成させるための時間としては、15~20年は決して長くはない。むしろ「待ったなし」である。これは1回目の撤退の時の状況とほぼ等しい。今回のホンダのF1撤退に関して様々な声があるとは思うが、将来的にこの決断が自動車業界全体に対して正しかった事が証明されるものと、生意気は承知の上だが筆者は信じている。
1回目と4回目は大きく言えば、世界規模、業界規模での変革--特に環境問題--に備えてのことであった。だが、2回目の時は、少し事情が違う。もはやF1で「向かうところ敵なし」の状況となり「所期の目的を達成した」ためと公式には伝えられたが、実はその裏には、世界的にホンダの市販車販売に陰りが見えていたことがあった。つまりはホンダそのものの危急存亡の時だったのである。また2008年の3回目の時は、公式には「金融危機(いわゆるリーマン・ショック)以降の経営環境の変化」が理由に挙げられていたが、これまたホンダの軽自動車の販売が危機に瀕していた危急存亡の時であった。
さて、この4回のホンダのF1撤退劇の裏には、実は共通して「あるもの」が存在している。それは「大衆のための小型自動車(あるいは軽自動車)」だ。1回目の撤退はCVCCエンジンを搭載した初代「シビック」を生んだ。そして先日発表された4回目の撤退は、まず新世代の小型EVである「ホンダe」を誕生させた(ただし、まだホンダが以前に造ったEV--「EVプラス」や「フィットEV」あるいは燃料電池車の「クラリティ」--と同様に個人所有を前提とした商品ではないため、本当の意味での新世代車はこれから生まれるはずだ)。
3回目の撤退の時に生まれたのがホンダ軽自動車市場の救世主となり、現在も好評を博している「N-BOX」とその一族だが、2回目の撤退の際に生まれたのが、小型大衆車の「ロゴ」と、それをベースとした「Jムーバー」と呼ばれた派生車、「キャパ」と「HR-V」であった。
言うまでもなくホンダは輸送機器メーカーである。創業者の本田氏は、レース活動における技術研鑽が自社製品の品質向上につながるとの考えを持っていたし、モータースポーツの振興はいつの時代でもホンダの社風として知られている。だが、ホンダはモータースポーツ活動のための企業ではない。2輪や4輪自動車、あるいはモーターボート用船外機やジェット機、発電機や耕運機に至るまで、機械製品を製造販売して利益を得ている会社だ。モノを作って売ることが企業としての主たる任務であって、決してレース活動で食っているわけではない。
原則として自動車メーカーの屋台骨を支えるのは、最量販車種である小型自動車である(日本では軽自動車の場合もあるが…)。これはホンダとて同様だ。特に1回目のF1撤退で生まれた初代シビックは言うまでもなく、ホンダどころか「日本車のレジェンド」であり、その2代目がややスケールアップする穴を埋める形で登場したトール・スタイルが印象的だった初代シティもまた、若い世代を中心に好評を博した。
さて、シビックはともかく、バブル経済とともに1986年に登場した2代目シティは初代と大きく姿を変えて「クラウチング・フォルム」と呼ぶロー&ワイドなスタイリングとなり、初代に用意されていたターボ車も高性能グレードの設定もなかった。このためユーザー、特に初代シティに惹かれたような若年層への訴求力に欠け、販売は低迷した。ホンダとしては早急に何らかの手を打つ必要性に迫られることになり、かくして新たな小型自動車「ロゴ」が誕生することになる。
期待の新型小型車「ロゴ」誕生。しかし…
「ホンダは、絶えず自己否定しながら進む。初代シティはそれなりに成功した。2代目は初代を越えようと大きく変わったのだ。結果の成否は別として」
「初代はある程度の成功をおさめたが、結局、シティは住み処が見出せなかった。それはクラスが非常に難しいところにあるからだ」
ロゴの開発者たちは、シティについてこう述べていた。本来、シティはいわゆるBセグメントに属するクルマだが、当初からホンダらしい「規格外」のクルマだったため、結果としてその所在を曖昧模糊としていたという分析である。ならば、その後継車たるロゴは、シティとは正反対に徹底的に「規格内」を目指したと言える。ある意味、これは「ホンダイズム」とまでは行かないまでも、「ホンダ的なものと言われる何か」の否定と言えるかもしれない。
ロゴの開発が始まったのは1993年だと言うが、実は1991年から開発のための市場調査が始まっていた。ちょうどバブル崩壊が始まった頃であり、まだホンダという会社の精神的支柱でもあった創業者・本田宗一郎氏が存命中のことだ。この調査で得られたのが『あんあんかんべん』というキーワード、すなわち安心感、安価、簡単、便利であり、「(自分たちが)つっ走ってきた『わくわく』型だけが、客が求めているクルマではない」という認識だった。かくしてロゴは『ちょうどよさの高性能』をテーマに掲げることになる。本田氏がこれを聞いたら、果たしてどう思われただろうか…? それを聞くことも、無論、ロゴというクルマも見ることなく、本田氏は1991年8月5日に逝去される。
ここで書いておかねばならないことがある。ロゴの開発首脳陣、企画開発総括の黒田博史RAD(=Representative of Automotive Development=自動車開発代表) もチーフエンジニアの本間日義LPL(=Large Project Leader)や野中俊彦氏(いずれも当時)も、初代シティ開発チームの出身だったということだ。ロゴはシティとまったく無関係の人間が、近年の市場調査結果をふりかざして「そら見たことか」と正反対の方向のクルマ作りをしようとして出来たわけではない。開発者が自らの成功体験とでも言うべきものをすべて忘れ去り、それどころか過去の自分の成果の全否定に近い形で作られたのである。ロゴには「非ホンダ的」という評もあったが、この意味ではロゴは最も「ホンダ的」な出自だと言えるかもしれない。
ロゴのサイズは全長3750mm×全幅1645mm×全高1490mm。実は全高は"トールボーイ”初代シティより20mm高い。無論、全長で370mm長く、全幅で75mm広いディメンションのせいもあるが、欧州で普段使いされるコンパクトカーを意識したという、きわめてシンプルにまとめられたデザインの力が大きい…と筆者は思う。
エンジンは1.3ℓの直4、SOHCのD13B型。2代目シティの1.2ℓに始まるホンダD型エンジンの一族で、4代目EF型シビックに「HYPER 16VALVE ENGINE」 として搭載されたものの2バルブ仕様だ。大雑把に言えば、シビックに積んだ4バルブ仕様から吸排気バルブを1本ずつ外して開口部にフタをし、3ステージVTECのバルブ休止機構だけ取り出して、開閉タイミングもリフト量を高くして低速トルクに徹した吸排気2バルブ仕様。最高出力66ps/5000rpmはいかにも非力だが、最大トルクは11.3kgm/2500rpm。当時の1.3ℓ級エンジンは最大トルクを4000~4500rpmあたりで発生させていたのがほとんどだったから、あえて低中速トルクをたっぷり取った「街乗りベスト」設定だ。もちろん、それゆえに4000rpmを越えると急激にトルクは痩せ細ったが…。
組み合わされるトランスミッションはCVT(=ホンダマルチマチック)か3速AT、5速MT。CVTは当時は贅沢装備だったが、今から思えば、当時、ライバル車のひとつであった日産マーチがN・CVTを採用していたから、採用は必須だったのだろう。5速MTは熟成されていたが、もはやこの当時でも「営業車需要」への対応という扱いだった。おそらく"本命”は3速AT。4速にしなかったのは、3速の方がキックダウンせずに引っ張ろうとするため、キックダウンによるエンジン回転の急激な変化を避けるのに好適だったからだという。無論、高速巡航時のエンジン回転数が高めになるとか、シフトショックが少々大きいといった点も見られたが、「街乗りベスト」を考えれば多分、これがベストマッチだったのだ。
さて、問題は足まわりだ。フロントは平凡なマクファーソンストラット式、リヤはトーショナルビーム式3リンクリジッドという極めて標準的なサスペンションだったが、これが自動車評論家筋から「間違いだらけ」と物言いがついたのである。ロゴは「街乗りベスト」を掲げたクルマゆえに、乗り心地と静粛性を第一に開発されているから、たしかに運転音痴の筆者からしても、低速でもアメリカ車のようなフワフワした感じがあり、突き上げ感も高かった印象がある。また先述のように、見た目に反して全高は初代シティより高く、重心も高かったから、柔らかい足まわりと相まって特に高速のコーナリングでは突然グラッとロールが始まって冷汗が出た。ただし、これは「街乗り」の範囲を少々超えた速度での場合だ。だが、これに対し、「スタビライザーさえ付けないとはけしからん」というわけである。
生意気は重々に承知の上だが、原則論で言えば、スタビライザーはカーブを曲がる際の安定した走行には有効だ。実際の運転状況を考えると、たとえば高速道路の出入口など大きく曲がるような局面での不安定感の解消にはスタビライザーは大きな効果を発揮する。だが、悪路を走行するような場合には、左右のサスペンションをつないでいるがゆえに、速度が低速であっても乗り心地を悪化させる。道路状況によっては、スタビライザーは安定した走行の邪魔をする場合もあるのだ。何度も書いているがロゴは「街乗りベスト」を目指していたクルマである。それゆえ当初から乗り心地最優先で設計・開発されており、振動・騒音を徹底的に封じ込めようとしていた。開発者が「スタビなしであれほどの操安性が達成できたのに満足感を覚える」と語っていたように、当初から「わざわざ」スタビライザーを付けないことを前提に開発していたクルマなのだ。
これは筆者の私見に過ぎないが、このサスペンションを巡る言説から、当時、ロゴが「間違いだらけ」の危険なクルマというそしりを受けたことは免れない…と思う。だが、時速80km以上の法定速度で走れる「街中」とは、いったい日本のどこにある町なのだろうか? たとえばロゴは海外輸出もされているが、少なくとも筆者が知る限り、当時の欧州の自動車メディアがロゴのサスペンションを批判したことはない。大方の評価が欧州ライバル車と比較して「フォード・フィエスタ(ちなみに初代フィエスタは日本ではホンダ系のHISCOが扱っていた)かと思った。可もなく不可もなし」であり、「古い石畳の街中でも快適に走れる」としていた。多分、欧州にも時速80km以上の法定速度で走れるような「街中」など無かったのだろう。無論、筆者にはホンダに忖度する恩義など一切ないし、いかなる自動車評論家、ジャーナリストに対しても特段の悪意など抱いていないことははっきりさせておきたい。
ロゴは1996年10月に発売されたが、そのセールスは必ずしも芳しいものではなかった。まったくもってホンダらしからぬ(?)手堅い作りとデザインは玄人ウケに過ぎたし、その玄人に対しては、先述のいわれなきサスペンション非難が響いていた点もあっただろう。また、このクラスの人気が当時は全体的にパッとせず、人気車種と不人気車種が極端に分かれていたという事情もある。だが、ロゴをめぐる話はここで終わらない。
翌、1987年の東京モーターショーに「J-MW」、「J-WJ」、「J-VX」、「J-MJ」という4台のコンセプトカーが展示されたが、これこそロゴのプラットフォームを水平展開した、「Jムーバー」と総称される派生車群であった…。
(その2・「Jムーバー」編 へ続く)
ホンダ ロゴ 3ドア L(3速AT)主要スペック
全長×全幅×全高(mm):3750×1645×1490
ホイールベース(mm):2360
トレッド(mm)(前/後):1425/1400
車両重量(kg):820
乗車定員:5名
エンジン型式:D13B型
エンジン種類・弁機構:直列4気筒 SOHC 8v
総排気量(cc):1343
ボア×ストローク(mm):75.0×76.0
圧縮比:9.2
燃料供給装置:電子制御燃料噴射(PGM-FI)
最高出力(ps/rpm):66/5000
最大トルク(kgm/rpm):11.3/2500
トランスミッション:3速AT
燃料タンク容量(ℓ):40
10.15モード燃費(km/ℓ):17.2
サスペンション方式:(前)マクファーソンストラット/(後)トーションビーム
ブレーキ:(前)ディスク/(後):ドラム(リーディングトレーリング)
タイヤ(前/後とも):155SR13
価格(税別・東京地区):110.8万円