これまで数多くのクルマが世に送り出されてきたが、その1台1台に様々な苦労や葛藤があったはず。今回は「ニューモデル速報 第82弾 SERA[セラ]のすべて」から、開発時の苦労を振り返ってみよう。
当時、生産台数で世界のトップレベルにあったトヨタにとって、ミッドシップ方式を採用したMR2という例外を除いて、若者のハートに刺さるような冒険的なモデルが少なかった。一方、ホンダからはシティが発売され、マツダもファミリアを発表し、若者から支持を集めていた。そんな背景から、若年層をターゲットにしたヒット商品の開発に対する必要性を感じていた。
セラの原型は昭和62年に開催された第27回東京モーターショーに展示されたAXV-Ⅱ(上写真の右の車両)だが、実は昭和58年にカタチは異なるが斬新なコンセプトへの挑戦は始まっていたと、セラ開発のチーフエンジニアを務めた金子幹雄は語る。
昭和60年に再びリサーチを行なった結果、当時の若者は非日常性や意外性を好み、自己顕示欲と変身願望もあると掴んだ。そうして描いたスケッチは飛行機のキャノピーを彷彿とさせるような独創的なものだったが、普通のドア構造では大きな曲率のガラスだけで構成されるボディが成立しない。その解決策として考えられたのが、セラの特徴のひとつとなるガルウイングドアだった。
ガルウイングドアの開発は、MR2のTバールーフをベースに試作を重ねた。そうして、ショーで展示されたAXV-Ⅱへと繋がっていく。ショーでの評判もよく、社長からは1年以内に発売してはどうかと言われた。
しかし、問題はまだ残っていた。雨仕舞いや大型リヤグラスハッチの量産、ドアの操作感など、ガルウイングドアの採用例がなかったがための実験が山積したのだ。そのため、発売は2年後になった。
セラの開発は様々な異業種のメーカーとの協力が不可欠だったという。例えば、リヤのガラスは、ヒンジやダンパー、熱線やアンテナを取り付けるため、加工は非常に複雑だった。図面をみた旭ガラスの担当者は「どんな形状でもつくれないことはありません」といったというが、不安は大きかったそうだ。その他にも、タイヤもデザインの段階からダンロップと研究して開発を進めたという。オーディオもまるでライブハウスで音楽と一体になっているかのような雰囲気を富士通テンと共につくり出した。
金子は「セラは異業種のメーカー同士が、ひとつのテーマについて徹底的に協力することによって、より大きなエネルギーが生まれた良い例だと思う」という。また、「セラが世に出ることができたのは、若いスタッフの感性と情熱ももちろんだが、温かくそれを受け入れてくれたトップの功績が大きいと思う」と語った。