これまで数多くのクルマが世に送り出されてきたが、その1台1台に様々な苦労や葛藤があったはず。今回は「ニューモデル速報 第78弾 新型MR2のすべて」から、開発時の苦労を振り返ってみよう。
昭和59年の夏に発売された初代MR2は、世界でもトップクラスの生産台数を誇るトヨタ自動車が手掛けた初のミッドシップということで大きな話題を呼んだ。そもそもは昭和50年の中頃にFF用として開発したエンジンを用いれば、いままでにない運動性能の高いクルマができるという走行実験を担当する部署からの発案だった。また、初代ソアラの販売が好調だったことや、個性的なクルマへのニーズが高まっていたことも製品化を後押しした。
入院中、読んだ本の中にあった釈迦の言葉に感動した。
「己れが何ものにも変えがたく愛しいと同じように、他人もまた己れを世の中でもっとも愛しい。だから、己れの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならない」
というのも、有馬はMR2のデザインを探る中で、アメリカと日本における自己表現の考え方がかなり食い違っており、そのどちらも満足させることで悩んでいた。この教えをきっかけに「思い切り自己主張を貫くことのできるクルマとすることで、他人を思いやるゆとりが生まれる。それが次世代のMR2に必要なものだ」と至ったという。
難航していたデザインはエキサイティングとディスティンクティブを条件に、ルネッサンス以後の彫刻から得たヒントにデッサンを描いた。使い勝手が少しくらい悪くてもデザイン的な価値を尊重したかったという。最終的には、オリンピックの中継テレビに映る女性ランナーの姿態をモチーフに洗練されていった。
走りについては、ダブルウイッシュボーンの採用を検討していた。しかし、寸法を工面した試作車では狙った性能が出なかった。しかも、エンジンのパワーが大きくなっているから限界域での挙動が非常に難しい。オーバーステアになりやすい傾向を処理するために、サスペンションとボディを結合するブッシュの内部を、前向きの力に対してはソフトに、後ろ向きの力にはハードに作用するように剛性をチューニングした。多くのノウハウがあるFFやFRとは違って、設計者の勘の働かせどころが定まらないことに苦労したという。
初代のMR2は安価にミッドシップの持っている操縦性の良さを味わってもらうことを狙っていた。2代目では贅沢なものは、ある程度贅沢にしないと価値のバランスが取れないことに気づけたと振り返った。