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1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[青雲編]


学校を卒業すると、わたしはいわゆるひとつのサラリーマンになった。入った会社は、最近では入社するのがけっこう難しい人気企業となっているそうだが、わたしが入社した頃は「履歴書に自分の名前を間違わずに書ければ入れる」ぐらいのレベル感であったため、ここで特に言うべきことはない。


というか、自分はそもそもその会社に「腰掛け」的なつもりで入社したのであった。


1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[青雲編]


▲某消費財メーカーに勤務していた25歳頃の筆者。なぜこんな写真を撮ったのか、なぜ目をつぶっているのかは、筆者自身よく覚えていない

腰掛け気分でサラリーマンになったわたしは、本当は何がやりたかったのか? 何になりたかったのか?


自動車ジャーナリスト?


もちろん違う。わたしはそもそも25歳頃までクルマにはほとんど興味がなかった。


わたしがなりたかったのは音楽家だ。具体的には「ロック音楽を演奏するギタープレーヤー」である。


そのため、世を忍ぶ仮の姿として渋谷にあった会社にネクタイを締めて通うかたわら、バンドのリハーサルとリサイタルに精を出した。「イカ天」との略称で人気だったアマチュアバンド合戦みたいなテレビ番組にも、二度ほど出場した。


だがこのあたりの「クルマと関係ない話」は読者各位も退屈であろうから、ばっさり割愛する。とにかく結論として、音楽家としては芽は出なかった。わたしには「才能」がなかったし、「それでも努力を続ける才能」も、今にして思えばなかった。


バンドをやめ、「腰掛け」である会社員が「本職」に変わるときが来てしまった。だがわたしは、いわゆるひとつのサラリーマンというやつにあまり向いていなかった。


1967年11月、東京都杉並区生まれの少年が伊達軍曹になるまで[青雲編]


▲25歳頃のバンドマン写真が見当たらなかったため、この写真は20歳頃のもの。手にしているギターはローンで買ったギブソン レスポールJr.

そのことを強く自覚していたわたしは、バンド活動を辞めるとほぼ同時に辞表を提出。そして「プー」になった。


2年間ほどプー太郎としてプープーぶらぶらしていたが、長期にわたってぶらぶらしていると、さすがにやりたいことがなんとなく見えてくる。わたしの場合は出版業だった。それも、25歳ぐらいの頃に唐突に目覚めてしまった「輸入車」を扱う雑誌の編集記者に、わたしはなりたいと思った。強烈に。


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