自動車ライターにとって、試乗は楽しいものですし、役得だとも思います。そのあとで原稿にしたためる作業があるにせよ、自分の所有車ではないクルマをドライブできるのですから。クルマが好きな人間にとって、これを歓びではないというならなんといえばいいのでしょうか。
ただし、それをコンテンツにした場合、果たしてそれの依存度、信頼度というのはどれほどあるのでしょうか。読者の方がそれを読んで購入の参考に、どのくらい頼っているか、実はそこに関してかなり眉唾だったりもするのです。
試乗記は「クルマの読解」
なぜなら、目星をつけたクルマ、試乗しないと決められないという人は自分で試乗するでしょう。もとから眼中にないクルマは、好みではじかれるに違いありません。そうすると、自動車評論全般にも言えることですが、重要度という点でどの程度の重みがあるのか。別に軽んじているわけではないのですが、手ごたえの点において、圧倒的自信というものを正直に言うと感じにくい仕事。そんな気がしているのです。
でも、個人的には、試乗記というものは「クルマの読解」だと考えています。この世に悪いクルマというのはないと思っています。個人的な好みの点において、まったく惹かれないクルマはあります。しかしそれは私が好まないだけで、それを好む人もいるでしょう。まして、エンジニアがいろいろなマーケティング調査や、志、思いをもってクルマを開発し、良かれと思って完成されたものであるに違いないのです。「なぜ○○ではないのか!」というのは、後からはなんとでも評価できると思っています。しかし、どうしてそのクルマはそういうキャラクターになったのか。それをしっかりと読み取り、こういう人に向けて、こういう状況下で乗った場合、こういう風に感じられるという前提条件を含めて評価するべきだと思うのです。そこには良し悪しではなく、絶対評価をしていきたいと常々思っているのです。