近頃なぜか知らねど、拙者がその昔在籍していた杉並区立西田尋常小学校6年5組の小規模なクラス会が頻繁に開催されている。
17歳か18歳ぐらいの頃にはそれなりにしばしばクラス会が開催されていた記憶があるが、その後は約30年間、ほとんど会うこともなかった級友たちである。なぜ今になって、それこそ2カ月おきぐらいのペースで旧交を温めるようになったのだろうか。
人生の残り時間は意外と短い
皆それぞれ、子育てなどにおける手と時間と気合とが必要とされるピリオドを終え、なんとなく時間ができたから?
それもあるのだろうが、時間ができたからといって、何も尋常小学校時代の級友と会わねばならぬ道理はない。皆それぞれ「高尾山に登る」「詩吟教室に通う」「英検準一級の勉強をする」「日本文化センターで包丁を買う」など、さまざまのやるべきことがあるはずだ。
死期が近いから……であろうか?
というのは冗句だが、しかし冷静かつディープに考えてみれば、まったくもって冗句ではないとも言える。確かに拙者のようなおっさんの「死期」は、若かりし頃と比べれば確実に近づいてはきているのだ。
まあね、例えばの話、この原稿を書き上げたあとに「ちょいとシュペールなマルシェまで行って、清酒のアテでも買ってこようかしらん」なんつって往来に出た瞬間、2tロングのトラックにあっさり轢かれて死亡する可能性も2%ぐらいはあるため、人の死期なんてのはわからないものである。
だが「順当にいった場合」で考えても、20歳の拙者の余命がおおむね60年ほどと予想されるのに対し、現在の拙者の推定余命は約30年。
確かに近づいているのだ。
果たしてあと何台、どんなクルマに乗れるだろうか
そうなると必然的に気になってくるのが「拙者は今生においてあと何台、どんなクルマに乗ることができるだろうか?」ということだ。
もしも拙者がビル・ゲイツ並みの大金持ちであるなら「クルマは毎月買い替えます」なんて芸当もできるだろうが、あいにく拙者はビル・ゲイツさんの推定1000分の1ほどの資産しか持ち合わせていない。となれば、かなり頑張ったとて「2~3年に1回ぐらいのペースで乗り替える」ぐらいの結果となろう。