以前『スバル360とVWビートルの「類似性」を紐解く』というテーマで執筆したことがありますが、歴史的を遡っていくと日本車とドイツ車には不思議な因縁のような歴史が垣間見えてきます。
日本車の創世期にはすでにあのクルマの息がかかっていた事実
日本車の創世記にあたる21世紀初頭、すでに自動車の国産化を目論み果敢に挑んだエンジニアは複数存在します。一番有名なのは吉田信太郎と内山駒之助による「タクリー号」の愛称で知られる吉田式乗用自動車(1907年・明治40年)ですが、その少し後に福岡の矢野倖一という青年が地元の名士に技術力を見込まれ、独力で自身の名の「矢」から「アロー号」と名付けた1000ccの小型自動車の製作を始めます。しかし、エンジンの不調をどうしても解決できず途方に暮れていました。すると当時は第一次世界大戦の最中、捕虜収容所のドイツ軍捕虜の中にベンツのエンジニアが居ると知ると、陸軍に面会を申し込みアロー号のアドバイスを請います。不調の原因はキャブレターで、上海で売られているゼニスのキャブレターを入手すれば解決するというアドバイスの下、さっそく上海に渡りゼニスのキャブレターを入手、さっそくアロー号に取りつけると無事走行できるようになったという話が残っています。20代前半の東洋の青年がまったくの独学で自動車を作ろうとしていた事に、このベンツのエンジニアははたしてどんな事を思ったのでしょうか……。
矢野青年は乗用車生産を目論みますが、この実績からダンプトラックの架装の注文が舞い込み最終的に事業用の特殊車両の架装に専念する事になりますが、現在も架装メーカーとして矢野特殊自動車として活動しています。またアロー号は走行可能な状態で現存しています。
この時点で日本車の創世期には、すでにかの「ベンツ」の息が少なからずかかっていたということになります。