古典文学の中で、もっともポピュラーと言える「百人一首」。前回、当コラムでは「百人一首」の昔と今の違いを中心に紹介し、同時に「百人一首」は最初からカルタだったわけではないことに触れました。「百人一首」は本来は百人の和歌を一首ずつを並べた和歌集なのです。今回から、いつ誰が編んだどのような和歌集なのかなど、「百人一首」の基本についてご紹介していきます。
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百人一首の枠組
おおまかに言えば「百人一首」は、平安時代を核に前後の時代まで含めて代表的な歌人を中心に百人を選び、彼らの和歌を一首ずつ、ほぼ古い時代から新しい時代へと並べた歌集です。ですので、カルタと違い、一首一首の和歌は順番が固定されています。
初めの一番は天智天皇、二番は天智の皇女であり、天智の弟・天武天皇の后でもある持統天皇です。終わりの九九番は後鳥羽院、最後の一〇〇番は順徳院で、こちらも親子です。初めと終わりを皇族とし、彼らをどちらも親子で配置したのは、はっきりとした意図的なものが感じ取れます。
皇族の歌は他の和歌集にも入っていますが、勅撰集でもないのに、このような枠組みを取ったことは、ごく小さな歌集にもかかわらず、編纂する意識に大きな国の歴史に関わるものという思いがあったことを想像させます。
では、なぜ一・二番が天智天皇親子なのかということについて、少し説明しましょう。それは一言で言うと、平安時代の皇室を導いたのが天智天皇と思われていたからのようです。大化の改新で名高い天智天皇(38代)の後、天智の弟・天武と戦った大友皇子の弘文天皇(39代) が壬申の乱に敗れ、以後皇統は天武天皇(40代)の子孫が独占することになります。しかし、それが称徳天皇(48代)で断絶し、再び皇統は天智系に戻り、天智の孫・光仁天皇(49代)、次が平安時代最初の桓武天皇(50代)になります。このような歴史から、当時の人は彼らの時代を導いた天皇家の祖を天智天皇だと考えたのだろうとされ、「百人一首」冒頭を天智天皇が飾ることになったようです。
そして、終わりの方については、編者の生きた時代が反映されています。編者は藤原定家という鎌倉時代初めの代表的な歌人が有力視されています。ですから、定家と同時代の二人の院が時代順の最後になっているわけです。この二人の院は、鎌倉幕府と戦った承久の乱での敗者であり、和歌の世界を越えた歴史的な大事件の当事者でもあって、ここに登場する意味については深く考えるべきことがあります。
では、この四首とは、どのような歌なのか、以下で歌そのものを読みといていきましょう。
天智天皇と持統天皇の和歌
〈秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ〉
一番、天智天皇の歌です。言葉を補って内容を現代風にたどると、以下のようになります。
秋の田からの稲の刈り入れが終わった頃、仮造りの小屋には、粗末な刈草を束ねて作った屋根が隙間だらけで冷気が入り込み、仕事後の一休みをしている私の衣の袖は、露でしっとり濡れています、となります。
作中の人物は農民で、彼らの労働の厳しさを背景にしつつも、秋の豊かな収穫を終えた穏やかさと潤いが静かに広がっているように感じられます。作者は天皇とされますが、本来は万葉集に載る作者不詳の作品です。
それが、いつからか天智天皇作と伝えられるようになり選出されました。天皇は農民と一体化して、人々の生活を保証する農作物の豊かさを一緒に喜ぶ立場にあるという考えから選ばれたと推測されます。古代社会の理想像を写し取ったようなこの歌が「百人一首」で第一番に置かれた意味は小さくないと思われます。
〈春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山〉
二番、持統天皇の歌です。「けらし」(「したらしい」の意)と、「てふ」(「という」の意)だけがわかりにくい以外は、補う必要もない歌です。あえて示せば、春が過ぎて夏が来たらしい、白い布の衣を干しているという天の香具山です、となります。
まず、初夏の爽やかな空の広がりが想像されます。春が命の芽吹きの季節なら、夏は命がなお輝く季節です。そうした明るさや躍動感が期待される季節の到来です。大和の香具山では、その爽やかな空に翻るように白い衣が広がっています。香具山は、畝傍山・耳成山とともに、大和三山として古代人にとって故郷とも言える親しい山です。それは、平安時代の人々にとっても彼らの生まれる前の故郷であり、持統天皇が、その美しく生気に満ちた故郷の景を表したことを高く評価したのでしょう。
一番と二番は、古代の天皇の歌で、人と人の住む土地や自然への賛歌として選ばれているように思われます。その意味で、百首の冒頭を飾るに相応しい二首だと思います。
後鳥羽院と順徳院の和歌
〈人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は〉
こちらは、九九番目の後鳥羽院の歌です。「をし」とは、いとしいの意で、漢字を当てれば「愛し」になります。その他、語としてわかりにくくはないのですが、全体がなんとなくすっきりしません。筆者なりに訳してみますと、人に対して愛しくもあり、また恨めしくもあります。思うに任せず苦々しく世の中を思い、そのために悩みが深い自分としては、となります。
どうでしょうか。この歌は、もともと和歌の会で、「述懐」題で詠まれた作品で、心の内を吐き出すことを意図したものです。当時の後鳥羽院の心を生々しく表していると思われ、この9年後に鎌倉幕府との対立が収まらず、承久の乱を起こしていますが、恐らくそこに結びつく憤懣に満ちた思いの吐露と見てよいのではないでしょうか。
院は承久の乱の敗北によって、隠岐の島に配流となり、19年を過ごして崩御しますが、この歌が「百人一首」のこの位置に選ばれた意味は軽くはないように思われます。あえて一言で言うなら、編者による院への共感と鎮魂と言えるかもしれません。
〈ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり〉
「百人一首」最後、一〇〇番目の順徳院の歌です。順徳院も父・後鳥羽院同様に、承久の乱の後は佐渡島に配流され、21年を過ごして崩御しています。和歌冒頭の「ももしき」は「百敷」で、内裏や宮への枕詞ですが、広い敷地を表します。「軒端のしのぶ」は宮殿の軒に生えている羊歯類の草です。訳は、広大な宮殿は古び荒れて軒端には羊歯が生え垂れている。しかし、偲んでも偲び切れないほどの素晴らしい昔だったよ、となります。
上句の指す宮殿がどこかは明らかではありませんが、衰退する貴族文化の場だと想像するのが自然な解釈でしょう。父・後鳥羽院の歌が、現実的な世界に突きつけた憤懣そのものだったのに対して、現実に対比される過去の価値への深い哀惜の思いを詠んでいるのです。それに共感する編者も、その思いの結晶として「百人一首」を編んだというように読み取ることもできそうに思います。
冒頭二首と末尾二首を紹介しましたが、それらはまったく異なる、言わば明と暗が対照的とも言える差があります。筆者は、その間の落差ある道筋こそが「なほあまりある昔」なのだという編者の主張を読み取っても良いように思います。天皇を頂点とする貴族中心の時代から、武士が力で政治を支配する時代へと変化する中で、価値を弱め薄れる貴族の文化を哀惜する深い思いが、この百首を支えているとも読み取れるのではないでしょうか。
「百人一首」は、単なる和歌の寄せ集めではなく、一貫した主張をも読み取ることのできる一つの作品として見るべきであることをご紹介しました。
今年のゴールデンウィークは、「百人一首」の世界に触れてみてはいかがでしょうか。