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ぼた餅とお萩、その果てしなき相克とは?二十四節気「春分」


三月二十一日から、二十四節気の「春分」。節気初日は春彼岸(3月18~24日)の中日。この日と秋の秋分は、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。このため、この世(此岸)と西方浄土(彼岸)がつながって、亡くなった親しい人や先祖と通信できるようになると信じられてきました。春彼岸の時期になると、里の葉山(端山)の縁にはコブシの白い花が目立ち始めます。そしてお彼岸と言えば墓参り。そして先祖の御霊にお供えもする「牡丹餅」。お好きな方も多いでしょう。この牡丹餅、その呼び名には謎の多い和菓子なのです。


春の到来を告げるもう一つの「サクラ」。田打ち桜とは?

春が訪れると、まず里ではキブシの黄色い花房と、コブシの目にしみるような白い花が咲き出します。

コブシ(辛夷 Magnolia kobus)は、モクレン科モクレン属の落葉広葉樹で、林のふちに20モクレン科の種名であるMagnolia(マグノリア)に、そのまま日本語読みの「こぶし」を基にした学名がつけられ、英名もKobushi magnoliaですが、漢字で表記される「辛夷」は、中国語のモクレンを指します。漢方では、まだ花が開く前のコブシ、モクレン、タムシバなどの毛に覆われたつぼみを摘み取り、生薬として鼻炎・蓄膿症などの治療に使います。

コブシは北海道、本州、九州の平地・低地に自生し、より高山には近縁種でややこぶりのタムシバが分布します。まだ落葉樹の葉も出てこない頃の早春の枯れ山に、サクラに先駆けて20メートルにも達する樹形いっぱいに、まぶしいほどの白い花をつけます。かつてはコブシの花が咲くとそれは田の神が耕作の開始を促す兆しととらえ、休眠させていた田に鍬入れをして固まっていた土をほぐし、空気を入れて田植えの準備に取りかかりました。このため、コブシは多くの地域で「田打ち桜」という別名で呼ばれるのです。コブシの木にはテルペン類の精油が含まれていて、花にはレモンに似た芳香があり、満開の樹下に近づくと、何ともいえない心地よさをおぼえます。

モクレンの花

モクレンの花


牡丹の花に似ていないのになぜ「牡丹餅」?

さて、お彼岸というと春も秋も、あの半搗きの餅を小豆餡で包んだ和菓子「お萩」または「牡丹餅」を食べる伝統がよく知られていますね。

よく言われるのは、秋には萩の花が咲き、小豆餡をまぶした姿がその萩の花に似ていることから「お萩」、春は牡丹の花が咲き、それを牡丹の花に見立てて「牡丹餅」と呼ぶ、というもの。でも皆さん、本当にあの餅菓子が、萩の花や牡丹の花に似ていると思いますか?有り体に言えば、似てないですよね。

萩の花は、萩も小豆も同じマメ科ですし、実際秋彼岸の頃には野に萩が咲いていますから「お萩」とあやかる連想は、まだわからなくはありません。でも、牡丹は春の彼岸ごろにはまったく咲いていません。咲くのは夏も近づく頃の五月の晩春です。またその花はフリルになった大きな花弁がこぼれるばかりに八重咲きになる豪華なもの。丸っこい牡丹餅とは似ても似つかず、到底納得がいく見立てではありません。

お萩と牡丹餅は、小ぶりなものがお萩で大きいものが牡丹餅(またはその逆)、餅にもち米とうるち米を混ぜたのがお萩で、もち米だけなのが牡丹餅(またはその逆)、つぶ餡なのがお萩でこし餡なのが牡丹餅(またはその逆)、と説はさまざまで、しかももっともらしい説明つきだったりもします。

たとえばつぶ餡・こし餡の違い説では、小豆は秋に収穫され、収穫されて間もない小豆を使うお萩は柔らかいのでつぶ餡にし、年を越して固くなった小豆を使う春にはこし餡にするのだ、と。でも、小豆の収穫期は10月から12月で、しかも収穫した後に乾燥させなければならないので、9月のお彼岸に小豆の新豆は到底間に合いません。

端的に言ってしまえば、秋の彼岸はお萩、春の彼岸は牡丹餅、と呼び習わすという伝聞そのものが明治期以降に広まった、まことしやかな俗説なのです。この俗説の出所は江戸中期から明治にかけて編纂された国語辞書「和訓栞」と思われますが、その「かいもち」(粥餅)の項目で「春は牡丹餅、夏を夜舟、秋を萩、冬を北窓」と名前を変える、と記されています。でもこれには「一縉紳の戯談に」と但し書きがついているのです。一縉紳とは身分の高い貴族階級の男性、つまり今で言えばセレブ男性。セレブの偉い人が戯れにこんな気の利いたオシャレなことを言ってますよ、と紹介しているにすぎず、実際にそのような風習、習俗があったわけではないのです。


「ぼた餅」の名には牡丹ではない意味があった

お萩または牡丹餅とも言われる和菓子は、縁起物の食べ物ではありましたが、お彼岸に食べるとは限定されてはいませんでした。その上、慶長年間(1596~1615年)の「日葡辞書」によれば餡が中で外側が餅であると記されています。そして、この半搗きの餅団子の搗き残った白米のつぶつぶが、さながら白萩(シロバナハギ。宮城野の固有種ミヤギノハギの変種)が咲きこぼれるようであることから、「萩の餅」と呼ばれている、としています。元禄期ごろになると、餅団子に上から小豆餡やきなこををまぶして食べるみたらし団子のような食べ方が考案されました。すると、小豆餡をかけたさまが赤紫の萩の花のようだ、という見立てが生まれます。白萩の発想がまずあって、小豆餡を萩とする見立てが生まれたのでしょうか。

「お萩」の呼び名がもっとも古くは「四河入海(しがにっかい 1534年)」に登場するのに対して、「ぼた餅」の呼び名は150年近く遅れて、元禄10年(1697年)の「本朝食鑑」に「母多餅」として登場します。「本朝世事談綺(菊岡沾涼 1734/享保19年)」では、いくつもの半搗き餅を皿に盛り、その上から餡をかけたさまが「牡丹の花に似ているために」牡丹餅という、と書かれ、現在の牡丹餅とはまったく異なることがわかります。文献から推察すれば、まず萩餅、萩の餅と呼ばれていたものが、後にバリエーションが生まれて牡丹餅とも呼ばれるようになった、と考えられます。

しかし、それですとどうも話がおかしくなります。「ぼたもち」の「ぼた」は決して美しい言葉ではなく、野卑で見てくれのよくないものを意味しているからです。「ぼた」とは土手や畦のこと、また古くは「物の円かに柔らかく重き」こととされていました。今でも「ぼてっとした」と言った言い回しとして生きていますよね。そして萩の花の別名はぼた花と言われていましたが、これも土手(ぼた)によく繁茂する野草であることからつけられたもの。

「ぼた餅顔」とは、下膨れで不細工だという意味となり、容姿を貶める悪口にもなりました。「萩の花 ぼたもちの名ぞ見苦しや」(鷹筑波集所収)といった俳句もあるほど、「ぼた餅」という呼称は卑しく、醜い名とされていたのです。だとするなら、もともと「萩餅」という美しい呼び名があるのに、わざわざぼた餅という「聞き苦しい」別名が後からつけられる意味が分かりません。ですから、「ぼた餅」のほうがもともとの古い呼び名だったと考えるのが自然です。「やわらかく重く丸い」というぼたの意味にぴったりの半搗き餅を「ぼた餅」と呼び習わしていたものを、上流階級が聞き苦しいとして「ぼた」→「萩」へと置き換え、ぼた餅の別名になった。それにあわせてもとの名のぼた餅も、「牡丹」という当て字で「牡丹餅」という美称で呼ぶようになった、ということなのではないでしょうか。

古代に黒米で作られていた餅団子が、後に白米文化に移行したときにその色が小豆に置き換えられて復活したものがぼた餅である、という考え方もあります。

このように、ぼた餅-お萩論は実は奥の深いテーマで、そうであるからこそさまざまな俗説も生まれがち、ということなのでしょう。

温暖化によりサクラの開花期が以前より早く感じられるように、コブシもかつてよりは開花期が早めになっている感があります。すでに3月の半ばごろから咲き始めている地域も多くあります。ちょうどお彼岸の頃には見ごろの地域が多そうですよ。

本朝世事談綺

萩の花

萩の花

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