12月22日は冬至。六陰月(午・未・申・酉・戌・亥)の最後にあたり陰気が極まるとと同時に、夏至以来北半球から遠ざかり続けた太陽が南回帰線を折り返して、北半球に再び帰ってくる一陽来復(陽気が復活する時)の日でもあります。また、二十四節気の「冬至」の初日にも当たります。この日、唐茄子(とうなす・かぼちゃ)をはじめとした「と」のつくものを食べるとよいとされ、ゆず湯につかり風邪予防するなどの風習がありますね。そして厳しい真冬のはじまりにもかかわらず、冬至の七十二候は陽の気、春の気配に満ちたものとなっています。
初候「乃東生」。「乃東」とはウツボグサではなく、春に咲く可憐な花のことです
中国宣明暦では、冬至の七十二候は、初候「蚯蚓結(きゅういんむすぶ)」・次項「麋角解(びかくげす)」・末候「水泉動(すいせんうごく)」。
対して本朝七十二候は、貞享暦・宝暦暦・略本暦を通じて共通で、初候「乃東生(ないとうしょうず/なつかれくさしょうず)」・次候「「麋角解(びかくげす/さわしかつのおつる)」・末候「雪下出麦(せつかむぎをいだす)」。
宣明暦の初候「蚯蚓結」は、ミミズなどの地虫が寒さで縮み上がり、互いに土の中で絡まりあって結ぼれをなす、というちょっとコミカルな意味です。そういえば夏のころ、あれだけ地面にうじゃうじゃいたミミズやダンゴムシ、ワラジムシはどこへ行ってしまったのか、冬になるとぱったり見かけなくなりますよね。
和暦の初候はこれを変更して「乃東生」としています。これは、夏至の初候「「乃東枯」と照応しています。多くの辞書や歳時記では、この「乃東」のことを「夏枯草」つまりウツボグサ(靫草 Prunella vulgaris.L.)のことだとしています。「夏至」についての解説記事でも述べたことですが、これは間違いです。ウツボグサは夏至のころに枯れませんし、冬至の頃に芽を出したりしません。ウツボグサの花期は7~8月で、花が終わった晩夏に枯れます。乃東とは正しくはジュウニヒトエ(十二単 Ajuga nipponensis)のことです。4~5月のはじめごろ、十二単のようにいく層にも重なった白い花を咲かせます。春の山野を飾るその名花が、冬至の頃にひっそりと芽を出すという、可憐な候です。
名人渋川春海、唯一の疑問手「麋角解」の波紋
次候は宣明暦・和暦とも共通して「麋角解」になります。「麋(び・さわしか)」の角が落ちる、という意味ですが、問題は麋とは何か、です。
最初の和暦である貞享暦を編纂した渋川春海は、唐風の宣明暦七十二候に含まれる、神話的・空想的な候を廃し、同時に日本には生息しない生き物についての候も撤廃し、日本の風土や生物にマッチングした七十二候を作り出しました。春海が創出した和風七十二候は、日本の風土自然の正確な知識に基づいた見事な美しいタペストリーを織りなしています。ですから「麋」も日本に生息する生物である、と考えるべきなのですが、残念ながら冬至のこの時期に角を落とす動物は日本にはいません。
麋とは麋鹿(ミールー)と呼ばれ、かつて中国大陸に広く生息していた珍獣シフゾウ(Elaphurus davidianus)のことです。シフゾウはシカ科シフゾウ属に分類され、本種のみで一属を形成します。角がシカ、頸部がラクダ、蹄がウシ、尾がロバに似るがそのどれでもない不可思議な生き物として、四不像または四不相という名がつきました。かつては中国の中原から北部の沼沢地に広く生息していたといわれるシフゾウですが、近代になるにつれて狩猟によって数を減らし、20世紀初頭の義和団の乱による内乱の中で、わずかに生き残った野生のシフゾウの群れが狩りつくされ、絶滅してしまいました。ところがそれに先立つ19世紀半ば、パンダをヨーロッパに紹介したことで知られるフランスの宣教師、アルマン・ダヴィッド神父(Armand David)が持ち帰ったシフゾウが、イギリスの大富豪により繁殖飼育されていることがわかり、シフゾウは絶滅を回避して中国に里帰りした、という不思議な経緯があります。
シフゾウのオスは冬至の頃に片方で2kgにもなる大きな角を落とし、翌年の角に生え変わり始めます。しかしながら当然、シフゾウは日本には生息していません。一方、日本に住む唯一の在来種のシカであるニホンジカが角を落とす時期は春先です。ですから、麋をニホンジカに読み替えてあてはめることもできません。
なぜ、渋川春海は「麋角解」を廃して日本独自の候を作ろうとしなかったのでしょうか。間違いなくこれは何かの勘違いによって残ったものです。日本にいる何かの動物のことだと考えたのです。碁打ちとしても名をはせていた渋川春海。七十二候設定における唯一の疑問手、悪手と言っていいでしょう。
麋はなぜカモシカになりしか?西村遠里、迷走す
春海が麋を何だと思ったのかははっきりとはわかりません。しかし、宝暦の改暦でも、「麋角解」は受け継がれてしまいます。宝暦暦の実質的な主導的役割だった西村遠里は、著書「天文俗談」の「七十二候のこと」の中で、
麋角解とはかもしか乃角朽ちおちるなり
と記し、なんと麋をあのカモシカ(ニホンカモシカ)の角が落ちることだとしています。いうまでもなく、カモシカの分枝しないヤギのような角は骨由来の角であり、一度生えてきたら生え変わることはありません。シカの角が皮膚由来であるのとは対照的です。したがってこれも明らかに間違い、誤解です。
江戸時代、山人であるマタギなどはのぞき、高山に住むカモシカについて、一般人はほとんど知識が無かったものと思われます。「本朝食鑑」(1697年)の巻十ニ・獣では、カモシカについて
夜は角を以って樹枝に掛け、地に着かずして宿す
と、カモシカは角で木にぶらさがって宙に浮いて眠る、と書かれています。さらに「遠山奇談」(1798年)ではカモシカは岩場にじっとしていると体が岩に吸い付いて取れなくなってしまう、と唖然とするようなことを書いています。江戸時代の人々が、いかに稀に見かけるカモシカという動物を空想的にとらえていたかがわかります。角も生え変わるものだと思っていたとしても不思議ではありません。
「厳島にはムースがいむうす…」春木煥光、夢うつつ
さて一方「七十二候鳥獣虫魚草木略解」では春木煥光が実に面白い叙述をしていますので、少し長めですが引用します。
麋ハ和名鈔ニ オホシカト云 古ヨリオホシカト訓スルノミニシテ 麋鹿ノ分別ヲ明弁スル者ナシ
(中略)
鹿ハ山獣ニシテ陽ニ属ス 故ニ夏至陰気ニ感ジテ角ヲ解(おと)ス
麋ハ水沢ノ獣ニシテ陰ニ属ス 故ニ冬至ノ陽気ニ感ジテ角ヲ解ス
形鹿ヨリ大ニシテ青黒色 臍黒色ナリ 常ノ目ノ下ニ又各一目アリ夜ル物ヲ見ル
牡ニ角アリ牝ニ角無キコトハ鹿ニ異ナラズ 其角ノ枝ハ末ニ簇リ分ルテ 鹿角ノ端正ナルに異ナリ 又扁潤(ひらたく)シテ手掌ノ如ク 鴨脚象(いちょう)ノ如クナルモアリ
芸州厳島ニハ麋多シト云フ 袋角ヲ麋茸ト云 唐山ニテハ鹿茸ニ偽ルト云 本邦ニハ麋却テ少キ故ニ其愁ハナシ
出だしはまともです。麋のことを日本では古来「大鹿」とのみ呼び習わしていたが、大鹿って何?ということをつきつめた人はいなかった。そして、シカは山に住むので陰陽思想でいうと「陽」の動物であり、そのため夏至が近づく頃、その陰気に反応して角を落とす。方や「麋」は水辺・沼や沢に住むので「陰」の動物である。よって冬至のころ、陽気が生じたことを感じ取って角を落とすのだ、と言うのです。陰陽思想の深みや自然観が表現されたすばらしい記述ですし、麋の正体=シフゾウにも肉迫しています。
ところがその後の記述、目の下に夜に利くもうひとつの眼がある、というあたりから様子がおかしくなります。角に関しては、「平たくて手のひらのようだったり、イチョウの葉っぱのような角をしている」という記述を見ると、どうもヘラジカやトナカイを想定しているようです。さらに「芸州厳島」つまり広島の厳島にはこのシフゾウもしくはヘラジカ・トナカイがたくさんいるらしい、と続きます。煥光は何を言ってるのでしょうか。
西村遠里も春木煥光も結局迷走してトンデモなことを言い出すのは、それもこれも、渋川春海を絶大に信頼し、間違うわけがないと考えていたためかもしれません。だから珍獣カモシカを持ち出したり、離島にはけっこう麋がいるらしいよ、なんて話をしてしまったのではないか、などと想像すると、江戸時代の賢人たちの人間臭さが伝わってきて、ちょっとほほえましさもおぼえます。
しかし常識的に考えればありえないのですが、こんな想像もしてしまいます。あるいはもしかしたら、かつて厳島には何らかの理由でシフゾウかヘラジカが実際にいたのではないか。現在房総半島や伊豆大島に外来種の小鹿・キョン(羌 Muntiacus reevesi)が野生繁殖していますよね。それに似たようなことがもしかしたら江戸時代にあったとしたら。
現在日本でもシフゾウを見ることができます。東京の多摩動物公園、広島県の広島市安佐動物公園、熊本県の熊本市動植物園で飼育されています。明代の神怪奇譚・「封神演義」にも神獣四不象(スープーシャン)として登場した、世にも珍しい「麋」の実物を、ご覧になってはいかがでしょうか。