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二十四節気「秋分」考。現代人はなぜヒガンバナに魅せられるのか


9月23日より二十四節気「秋分」となります。またその初日は祝日「秋分の日」であり、この日を中心に前後三日を合わせた七日間がいわゆる「お彼岸」です。同じく「春分」の初日を中心とした七日間とともに、お彼岸には先祖供養のために墓参をする風習が現代でも存続していますね。これは古い天道(てんとう)信仰が仏教に吸収習合された日本ならではの習俗。天道信仰、そして彼岸とは?そして、秋の彼岸でひときわ存在感を放つあの花について解説します。


秋分には天の門が開く?

春分と秋分(二分)には昼夜の時間が同じになる、と解説されますが、厳密には大気の屈折率や太陽の地球から見た直径分などで、日本の緯度では約十数分昼の時間が長くなり、実際に昼夜の時間差がもっとも少なくなるのは春分の場合は春の彼岸の入り直前の日(春分の日の四日前)、秋分の場合は彼岸明け直後の日(秋分の日の四日後)となります。ではその日が春分・秋分になるのではないか、というとそうではなく、春分と秋分の日には太陽が真東の方角から昇り、真西の方角に沈むのです。このことが、この両日が特別な意味を持つ大切な日である理由です。

天空には、天の赤道(地球上の赤道を垂直に空に伸ばしていき、天球につきあたった場所)と、天の黄道(太陽の公転周期により、太陽が一年かけて移動していくルート)とがあり、この二つの巨大なリングは地球の自転軸の太陽に向けての傾きの分だけずれています。そして天の赤道と天の黄道が交接する箇所が、春分と秋分なのです。天動説だった時代には、この二箇所は、この世(此岸)とあの世(彼岸)に通じるゲート(出入り口、門)と考えられ、この門に太陽が位置するとき、この世にありながらあの世と接続できる、と信じられてきたのです。

春分と秋分には、太陽が真西から穢土(此岸)を西方の彼方にある浄土(彼岸)に向けて照らし、浄土からのお迎え(来迎)に導く。つまり彼岸にあると言われる極楽浄土の世界への転生が聞き届けられる日、とされたのです。

日本では、先史時代から続いてきた独自の太陽信仰と、道教の天道思想・仏教の涅槃思想とが結びつき、中世から近世にかけて庶民の間で「天道念仏」と呼ばれる信仰行事が盛んになりました。各地によりバリエーションがありますが彼岸の日に「南無阿弥陀仏」を唱えながら鉦と締太鼓の調子に合わせて輪になって踊り、また太陽の運行に合わせて集落の東、南、西と寺を巡り念仏を唱えて回りました。現在では、主なところで対馬(長崎県)、播磨地方(兵庫県)、北総地方(千葉県)などで天道念仏の風習が残っています。


秋彼岸のシンボル・ヒガンバナ。いつどこから来たかわかっていません

単に「彼岸」という場合、季語が春になり、春彼岸のほうがメジャーな印象がありますが、花に関しては秋のほうに軍配が上がります。春分草という草は存在しないのに、秋分草は存在します。そして、知らない人はいないであろう、秋彼岸の時期に毎年咲き出す真紅のヒガンバナ。

でもよく知られている植物にもかかわらず、実は日本文化・社会とこの花との関わりは、よくわかっていないことが多いのです。

キジカクシ目ヒガンバナ科に属するヒガンバナ(Lycoris radiata)は、染色体が三倍体で不稔性が強く、ごくまれに種子を創ることはあっても、日本に繁殖するヒガンバナのほとんどは根によって増殖したクローンだといわれています。水田の畦、川土手、里山の林道、祠・路傍の石仏の周囲や寺の境内、そして墓地のような人里の環境に限って生育する典型的な人里植物です。在来種ではなく大陸由来の帰化植物であることはわかっていますが、いつごろ日本に渡ってきたのかわかっていません。というのも、江戸時代以前の上代、中世の残存する文献には、一切ヒガンバナに関する記述が見当たらないからです。万葉集に所収されている柿本人麿作ともいわれる一首「路の邊のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は(巻11‐2480)」、この謎の花「いちしの花」がヒガンバナのことである、と植物学の大家・牧野富太郎が1952年に提唱し、このため「奈良時代にもヒガンバナはあった」という説が一時主流となりましたが、現在では「いちしろく」の「しろく」を明るい=赤と読んで赤い花とするには、万葉集の「いちしろく」の別箇所での使用例がすべて白に当てられていることから妥当性が低いと考えられるようになりました。

ヒガンバナが明確に「曼珠沙華」として文献に登場するのは室町時代になってからで、室町時代には、インド原産の珍しいあでやかな花として珍重されていたようです。

これが、江戸期に入ると「本草綱目」や「和漢三才図会」などに取り上げられ、次第に巷に知られる花となって行きました。おそらくその頃全国の農村に伝播し、各地でさまざまな呼び名をつけられるようになりました。1000を超えるとも言われるヒガンバナの別名の異常な数多さは、愛され親しまれていたからではなく、普及が比較的遅く(江戸前期から中期)、また急速に広まったため、各地域で好き勝手な名前がつけられたためだと思われます。

江戸時代、土葬の広まりとともに全草に毒のあるヒガンバナが野生動物の墓荒らしの防御のために墓場に盛んに植栽されたことから、次第に不祝儀な花、忌まわしい花になっていきました。

弁柄の 毒々しさよ 曼珠沙華 (森川許六)

長く上向きにのびたヒガンバナの蕊(しべ)を、ヘビの長い舌に見立てて気味悪がったり、墓地に目立つことから死人花、地獄花、幽霊花、墓花などの名もつけられました。彼岸花という名も、墓参りとの関連からつけられたものでしょう。

また、毒草であることから、ユリ科のツルボ(すみら)や同じヒガンバナ科のニラ(くくみら)など、葉のすらりとした単子葉植物全般につけられる「みら」に毒を冠して「ドクスミラ」などとも名づけられています。江戸期においては、総体的にはあまりイメージのよくない花として、絵画にもほとんど登場しないことから、美意識的な訴求力はさほどなかったようです。


ヒガンバナの咲き乱れる光景は都市生活者の思い描く「幻影の故郷」である

昔ながらの農村で咲く彼岸花の開花風景を求めて出かけてみると、地権者の農家の方によって他の雑草とともに容赦なく刈り取られて廃棄されているのを見かけることもしばしばです。咲いていればさぞ見事だっただろうにと思うのは都市生活者の感慨で、農家にとっては、モグラなどの害獣除けと土手の強化に根が地中に張っていれば問題なく、花に対しての思い入れはさほどないようです。このドライな感覚は、おそらく江戸時代の人々と同じものでしょう。

ヒガンバナは、都市生活者が日本の原風景的な「田舎」「農村」を思い描くとき、ぞくりとする美しさをもってたちあらわれてくるものなのではないでしょうか。

これは、日本全体が近代化=都市文明化がはじまった明治以降、ヒガンバナが文学のジャンルで突然脚光を浴びることになったことと合致します。正岡子規、河東碧梧桐、夏目漱石、北原白秋、種田山頭火、伊藤左千夫、古泉千樫、斉藤茂吉などの文人がこぞってヒガンバナを詩歌に詠み、このことにより独特の情緒をかきたてる花のイメージが創出されました。

きんいろの 日光すみて壕向う 静けき土手の 曼珠沙華の華 (古泉千樫)

この歌では忌まわしいイメージを払拭するように、明るい秋の陽光のもとにヒガンバナを歌い上げています。一方で

彼岸花さくふるさとは お墓のあるばかり

ここを墓場とし 曼珠沙華燃ゆる   (種田山頭火)

のように、墓、死、寺と結びついたややゴシック風味に誇張されたイメージも形成されました。そして昭和初期の「新・秋の七草」ではヒガンバナが選出されたことは、その頃には秋の花の中でも代表的な地位を得るほどになっていたことをうかがわせます。戦後は、絵画作品や映画、ドラマ、アニメーションなどにもたびたび登場し、特に村里の秋の風景の欠かせないアイテムとして印象が強くなりました。うねうねとヘビのように連なる田んぼの畦を、まるで血管のように赤く染めていくヒガンバナの群落は、村落共同体の血縁の絆のようにも、農民たちが施政者の圧制に苦しみ、流してきた血のようにも見えます。根無し草のようにアイデンティティの喪失におびえる都市生活者の心は、因習にとらわれた村里を忌まわしく恐怖すると同時に、その忌まわしさも含めて懐かしさをおぼえ、幻想の中の故郷の風景の象徴としてのヒガンバナに、強く魅せられるようになったのではないでしょうか。

近年では、ヒガンバナの大群落が観光地化し、ときに自治体が名物として推す傾向も強くなってきていますね。一見、純粋にヒガンバナの花としての美しさやあでやかさを鑑賞できるようになったのかとも思えますが、かといって自宅の庭一面に曼珠沙華を植える人はいませんよね。やはり、遠くの別世界=彼岸に咲いていてほしい花であることはそうそう変わらないようです。現代でもヒガンバナはまさに「彼岸の花」であると言っていいでしょう。

(参考)

ヒガンバナの博物誌 (栗田子郎 研成社)

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