まもなく8月も終わり。そろそろ秋めいてくる頃なのに、今年は猛暑が続いています。でも植物は既に秋草に入れ替わりつつあります。秋の植物といって有名なのが秋の七草。万葉集に収められた山上憶良の和歌が起源で、春の七草よりも古いものです。でも、その花のチョイスをふくめて、さまざまに物議をかもしてきた歴史があります。猛暑の収束を願いつつ、「秋の七草」の秘密を紐解きたいと思います。
山上憶良は「七草」にダブルイメージを託した?
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折りかき数うれば 七種(ななくさ)の花 (万葉集 巻8 1556)
萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花 (万葉集 巻8 1557)
山上憶良(やまのうえのおくら)によるこの二首がいわゆる「秋の七草」を歌った和歌です。ハギ(マメ科)、ススキ(イネ科)、クズ(マメ科)、カワラナデシコ(ナデシコ科)、オミナエシ(オミナエシ科)、フジバカマ(キク科)、アサガオ(ヒルガオ科、またはキキョウ-キキョウ科、ムクゲ-アオイ科、ヒルガオ)の七花で「秋の七草」というわけです。
風情のある名花の多い秋の花の中でなぜこの七種なのか、そもそもそのうちのカワラナデシコは、盛りは梅雨明け直後の盛夏で、立秋以降を秋としても無理があります。アサガオをキキョウとした場合にも同様で、キキョウは秋の花とはいえません。ベストチョイスとは到底思えないラインナップなのです。
浅学の徒ならばあっさり却下も出来ますが、山上憶良は見識・学識の深い賢者。こちらも有名な長歌です。
瓜食めば子ども思ほゆ
栗食めばまして偲(しぬ)はゆ
何處(いづく)より来りしものそ
眼交(まなかひ)にもとな懸りて安眠(やすい)し寝(な)さぬ (万葉集 巻5 802)
わが子を思う父の心から、「子供と言う存在はどこから来たのか」といぶかしむ哲学的な問いへの飛躍は、素朴な作風の多い万葉集の中で、きわめて近代的、現代的な覚醒した意識をうかがわせます。「秋の七草」の歌も、もしかしたら隠された別の意味、見立てによる暗号があるのではないか、と考えるようになりました。どうもある時期、「秋の七草」の歌は秘歌、つまり宗教-神話秘儀的な特別な意味をこめて謳われる歌とされていたようなのです。「奥儀抄」(12世紀前半ごろ・藤原清輔)、「和歌深秘抄」(1493年ごろ・堯憲)などの和歌の解説書に秘歌として「秋の七草」の歌が記載されていて、単なる花をめでる歌ではなく、隠された意味があるものだと、室町期頃までは考えられてきたことをうかがわせます。では、どんな隠された意味があるのでしょうか。
秋」の意味、「草」の意味。憶良の仕掛けた壮大な物語
「秋の七草」の「秋」とは、日本国の異名「秋津島(あきつしま)、そして雅号の「豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)」を暗喩しています。
そして「七草」の「草」とは「人民」の隠語。現在でも「民草」という言葉は使われますよね。このように読み解くと、「秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数うれば 七種(ななくさ)の花」とは「日本国の地に先んじた民を読み上げてみると、七つの種族をあげることができる」という意味になります。奈良時代の大和政権に先(咲き)がけて、この国の形を作った種族・一族が七つあった、というのです。そうすると、それらの七種族の名が、それぞれの花にあてられていることになります。
「萩」=ハギは「はばき」、つまり荒覇吐、荒吐、阿良波々岐、荒脛巾、阿羅波婆枳などと記述され、「東日流外三郡志」(つがるそとさんぐんし)に蝦夷(えみし)の神として記され、宮城県多賀城市の荒脛巾神社を代表として、現在も東北地方の各地で信仰されている「あらはばきの神」を示しています。つまり、あらはばき神を信仰し、ヤマト政権から東北、北陸、関東などへ追われ、まつろわぬ民として蔑まれた「あずまえびす」を暗にしめしたもの。
「尾花」=オバナ、つまりススキは、別名カヤ。3世紀から6世紀ごろまで存在していた朝鮮半島南部の伽耶(かや)国と呼ばれる13の小国群の民にあてはめることができます。倭の五王の時代には任那日本府がおかれ、新羅によって滅ぼされるまで日本(倭国)の支配地域でした。豊かな森林に恵まれた美しい国であったという伝承があります。
「葛花」=クズは国栖(くず、くにす)で、大和朝廷に恭順しなかった山人、つまり山岳民のこと。とりわけ奈良県吉野、大分県の碩田国、常陸国(茨城県)の国栖が有名で、「常陸国風土記」には「土蜘蛛」として登場します。
「瞿麦」=なでしこ、カワラナデシコは、福岡県香春(かはる)町に拠点を築いたといわれる製銅民、カハルの民をあらわしています。現在は宇佐神宮が八幡神の総本社ですが、古代には香春町の香春神社こそが本宮であったといわれています。宇佐はウサギで、因幡の白兎のウサギのモデル。そして九州のまつろわぬ民、熊襲(くまそ)ともいわれた隼人(はやと)=早兎でもあります。
「姫部志」=オミナエシは「おみな」は「女」、「えし」は古語の「へ(圧)し」で、美女をも圧倒する美しい姿からそう呼ばれます。その美しい姿とは裏腹に、花のにおいはきわめて脂臭く、それを虫を引き寄せるのですが、「味噌が腐ったような匂い」という意味で「敗醤」(はいしょう)とも名づけられています。古代朝鮮半島の百済最後の王・義慈王の王子だった扶余豊璋(ふよ ほうしょう)は百済が660年に滅亡すると、日本に亡命しました。百済からは古代より多くの人々が渡来し、日本文化の形成にも寄与しました。その百済虎移民を、王子「豐璋」にかけて敗醤(オミナエシ)として暗示されているものと思われます。百済の渡来人は出雲、熊野の国つ神とも関係が深く、日本神話の基層の神々の中にも、色濃く反映されています。
「藤袴」=フジバカマは、藤の音読みでとう=唐。唐土(中国王朝が歴代主に支配した地域)の南部をハカマと表現し、水田稲作、呉服、そして日本民族の自然崇拝の思想的ルーツと言われる苗族、日本に船団で訪れてさまざまな文明を伝えた徐福(じょふく)など、中国の南部・東部から日本にたどりつき、文化を伝えながら定着した渡来人のことをあらわしたものと考えられます。
「朝貌」=アサガオ。このアサガオのみは、花自体が何なのかが特定されていないことも含めて、何を表すのか謎が残ります。しかし、「朝に顔をのぞかせる」ものといえばそれは何にもまして太陽を連想させます。私見になりますが古代中国の神話、十人兄弟の太陽の母である羲和は太平洋の東の扶桑国、つまり日本に住むとされました。義和は天照大神のモデルのひとつにもなっていますが、その扶桑国は総の国=千葉であった、といわれます。太陽が昇る最も東の果てにある場所のためそうイメージされたのですが、また千葉は古代には麻の産地として有名で、「麻が多く生い茂る土地」と言われていました。麻が多い=アサガオで、この地に遠い昔に存在した大海上国(おおうなかみのくに)の民を、日本形成の七つの民の最後としたのではないか、と考えます。
これらの外来人や先住民たちは、この国に政権を打ち立てた大和朝廷にとっては、恭順させたとはいえ抑えつけておかねばならない外部勢力で、よってときに鬼として見下し蔑み、ときに霊験あらたかな神として尊崇しうやうやしく遠ざけられる存在でもありました。そんな彼らこそが日本を形作ったものなのだ、などとという歌は、公に表立って国書に記すことははばかられるため、象徴的な秘歌として万葉集に織り込まれたのではないでしょうか。そしてまた、こめられた意味に気づかせるためには、あまりにすんなりと受け取られる内容であってはいけません。あえて違和感を演出する七選にしたとすると、どうしてこの「秋の七草」にならねばならなかったのかが理解できます。
新・秋の七草もありますが…
しかし、後代になるほどやはりその本来の意図は薄れてうずもれていきました。そして、花の選択への不満や疑義のみがもちあがっていったようです。そこでということなのか、昭和10(1935)年、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が、「新・秋の七草」の選定という紙上イベントをおこないました。当時の著名文化人に一花ずつ選んでもらいできたのがこちら。(カッコ内は選者)
葉鶏頭 (長谷川時雨)
おしろい花 (与謝野晶子)
秋桜=コスモス (菊池寛)
彼岸花 (斉藤茂吉)
犬蓼=アカマンマ (高浜虚子)
菊 (牧野富太郎)
秋海棠=シュウカイドウ (永井荷風)
ほとんどが園芸品種で、野辺の花好きの筆者は正直ちょっと、うーん・・・と思ってしまいますが、いかがでしょうか。よく知られた花が多く親しみやすい感じはありますね。そして、この時代の文化人、文学者の作った感性が、今の時代の季節感覚や美意識に大きく影響を与えていることも見て取れて、面白く思います。ちなみに筆者ならばさんざん迷った末にこの七つを選びます。
サラシナショウマ(キンポウゲ科)
フシグロセンノウ(ナデシコ科)
カシワバハグマ(キク科)
ホトトギス(ユリ科)
チカラシバ(イネ科)
ミズアオイ(ミズアオイ科)
ワレモコウ(バラ科)
もし自分が選ばせてもらうなら、と想像するのも楽しいですね。貴方ならどんな花を選びますか?