江戸から明治維新への功労者として今でも多くの人に親しまれているのが「西郷さん」の愛称でおなじみの西郷隆盛でしょう。今は「西郷どん」でしょうか。東京上野公園に立っている兵児帯姿で犬をつれた銅像は、誰でもがあたりまえに知っている名所です。明治の偉人だったら勲章を下げた軍服姿のはずなのに何故? と不思議にも思います。でも故郷の鹿児島にはちゃんと軍服姿の西郷さんが立っていらっしゃいます。今日は西郷さんゆかりの地を探してみたいと思います。
美しい風景にかこまれた鹿児島。それが西郷隆盛の故郷です
江戸時代終焉の予兆は1853年(嘉永6年)の黒船来航でしょうか。その翌年西郷さんは主君である島津斉彬お庭方として、故郷の鹿児島を出立して江戸へ向かいます。この時が西郷隆盛の立身の出発点といえそうです。西郷さんの才覚を愛した斉彬は先見の明を持ち、早くから琉球国や清国を通して外国事情にも敏感でした。製鉄やガラス製造など近代工業に着目し、集成館として早くから事業化を始めていました。今でも薩摩切り子は光をたたえて美しく輝く鹿児島の工芸品ですね。その地は薩摩のシンボル桜島を望む美しい場所にあります。斉彬の後を継いだ久光によって美しい庭園に改造され仙巌園となって今に至っています。
京都は西郷さんが活躍した仕事場でした。それは由緒あるお寺なんですよ!
何段にも組まれた太い木の格子構造が美しい舞台を持つ清水寺。そこにある塔頭のひとつ成就院には西郷さんが訪れたという「月の庭」があります。高台寺山を借景とした庭園で夜空の月が湖面に映る美しさからそのように呼ばれているそうです。
西郷さんは何の用があってそんな素敵な庭を見にいったのでしょうか?
清水寺は近衛家の祈願寺であり、島津家は近衛家と姻戚関係にありました。篤姫が13代将軍家定に輿入れする前には近衛家の養女となっています。斉彬は近衛家を通して、朝廷と孝明天皇を動かして幕府の改革を進めていこう、という計画を持っていたようです。その役割を担った西郷さんは、この成就院に足しげく出入りをしていたわけです。ここには尊皇攘夷を支持する僧月照がいたのです。西郷さんとは親しく交わり大いに助けてもらっていたそうです。薩摩藩士や公家達が集まり、新しい時代にむけた熱い話し合いや秘めやかな会談をさかんに行っていたのが、由緒ある名園を前にしてだったのです。想像すると歴史が息づく町の楽しさが増してきますね。
月照はその後安政の大獄に巻き込まれ、逃れた先の薩摩で錦江湾をゆく舟の上から西郷さんとともに海に飛びこみ亡くなります。西郷さんだけ助かるのです。
いよいよ維新へ!鳥羽伏見の戦を指揮したは五重の塔の上!?
新幹線の車窓から五重の塔が見えてくると「ああ、京都に着いたって感じる」という人はきっと多いことでしょう。それは創建から1200年、空海によって創建された日本で初めての密教寺院、東寺の五重の塔です。
1867年(慶応3年)徳川慶喜が大政奉還を決意し天皇が許可。12月9日王政復古の大号令が発せられました。翌1868年ついに明治維新。明治新政府は慶喜に官位と領地の返還を求めます。権力だけでなく地位と財産を没収して、旧幕府の勢力を根こそぎ剥奪する方針が明らかになったのです。政権は天皇に返したのにそこまで奪うとは! と怒った会津・桑名両藩ならびに旧幕府派の藩兵1万5千人が、慶喜のいる大阪城を出発、1月3日鳥羽、伏見両街道から京都をめざしました。迎え討つのは薩摩・長州藩を中心にした5千人。西郷さんはこの時、東寺の五重の塔に登りそこから戦況を眺め指揮をとっていたと伝えられています。多勢に無勢で断然有利に見えた旧幕府軍ですが、戦況を変えたのは1月5日です。天皇の象徴である「錦の御旗」が新政府軍に翻り戦況は一変します。新政府を担う薩摩・長州藩に対する攻撃はできても天皇を敵にすることはできません。一気に新政府軍は優勢に転じます。
西郷さんが登ったという五重の塔は三代将軍家光が再建したもので、高さは約55mある日本一高い木造建築物です。心柱を密教の根本仏である大日如来に見立て、回りを金剛界四仏が囲んでいます。何より弘法大師空海が唐より持ち帰った仏舎利が納められているのです。55mもの塔に登った西郷さんの度胸もすごいですが、お釈迦様も仏さまも、それに空海さんだってどんなにか驚いたことでしょうね。
春を迎えると古都の魅力もいっそう増してきます。明治維新の歴史がそこここに刻まれている京都をていねいに訪ねていけば、あなただけの素敵な春になりそうですよ。