11月17日より、立冬の末候「金盞香(きんせんこうばし)」となります。小さな一重咲きのキンセンカの一種が、弱々しい初冬の短い日差しの中、金の盃に見立てられた鮮やかな橙黄色の花を開き、咲き香る頃。冬の間じゅう元気に咲き続けるその姿は、冬の寒さなんかものともしない花として「冬知らず」と名づけられました。と、「ちょっと待て。金盞とは水仙のことってどこでも書いてあるじゃん!キンセンカじゃないだろう」と思った貴方。今から説明しますのでどうか読んでみてください。
宝暦暦編纂にたずさわった西村遠里「金盞香とはキンセンカのこと」
貞享暦の立冬末候「霎乃降(こさめすなわちふる)」は、宝暦の改暦で「金盞香(きんせんこうばし)」に変更されました。宝暦の改暦は八代将軍吉宗の肝いりで始められたプロジェクトでしたが、吉宗や幕府天文方を主導した渋川則休(しぶかわのりよし)の死去により、実力のない天文方の西川正休(にしかわまさやす)と、貞享暦の採用により幕府から奪われた編暦の権限を朝廷・公家方に取り戻そうと画策する陰陽師家系の土御門泰邦(つちみかどやすくに)があとを継ぎました。そして両者は早々に対立、正休はプロジェクトから駆逐されてしまいました。こうして土御門泰邦により宝暦暦(宝暦甲戌元暦)は完成します。肝心の暦は貞享暦に少し手を加えた程度のきわめて不完全な問題のあるものでしたが、その分独自性を出そうと七十二候にはかなり大きな改変が加えられました。このとき、土御門泰邦の配下で改暦の事業に加わっていたのが西村遠里(にしむらとおさと)でした。宝暦13年9月1日の日食を予見し、京都所司代に日食の発生を上奏したエピソードからも、突出した暦法・天文の知識を有する人物でした。後に「天文俗談」において七十二候各項目について触れ、「金盞香」とは金盞花のことであると明記しています。七十二候の編纂にも携わった西村本人の言及ですから、これが真実で間違いないと思われます。
「金盞香」の金盞とは、キンセンカです。
ではどうして、金盞花であったものが「水仙である」ということになったのでしょうか。ルーツは意外にも古く江戸後期にありました。伊勢神宮の権禰宜・春木煥光(はるきてるみつ)による「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(1821年/文政4年)で、「金盞香の金盞は水仙のことだ」と明言しているのです。現代の多くの歳時記や辞書は、この記載を採用しているのでしょう。
が、この春木煥光、他の記載にかなり怪しい知識のものが多く、たとえばやはり解釈に異論の多い冬至の次侯「麋角解(さわしかつのおる)」について、「芸州厳島ニハ麋多シ」と、麋(さわしか=シフゾウ)についてなにやら勘違いしている模様です(『麋角解』についてはまた稿をあらためて解説できたらと思います)。ともあれ、宝暦暦が発布された宝暦5(1755)年から60年以上経つ間に、金盞はキンセンカから水仙にすりかわってしまったのです。
フユシラズを指していた「金盞」が水仙にすり替わったワケとは
宝暦暦が編纂された当時は、「金盞花」と言えばホンキンセンカ(本金盞花・ヒメキンセンカとも/Calendula arvensis)のことでした。先述したとおり別名「冬知らず」、晩秋から咲き始め、花の少ない冬を通して咲くために愛でられた花でした。ところが、江戸中期ごろ、中国から別の「金盞花」が渡来します。今私たちが一般的に目にする早春の花畑でよく見かけるオレンジ色で八重咲きのいわゆるポットマリーゴールド、トウキンセンカ(唐金盞花)です。こちらは「時知らず」という名がつけられるほど「年中咲いている花」ととらえられ、生け花では季節感のない「禁花」とされた花。この栽培が盛んになり、金盞花というとこのトウキンセンカや、あるいはまた同じく渡来した夏花のゴジカ(午時花)をさすようになり、本来のつつましやかなホンキンセンカはすたれていくのです。こうした変化があったため、風流風雅を好むむきのある歳時記では、「金盞香」を趣きのある水仙ということにしてしまったのではないでしょうか。
先述した春木煥光の「七十二候鳥獣虫魚草木略解」(1821年/文政4年)をひもとき、該当箇所を抜書きすると、「金盞ハ金盞銀台ノ別名ヲ略称スルニテ即チ水仙ノコト也」としています。しかし水仙の金盞銀台という別名は水仙の雅号です。雅号を「省略」して呼ぶのは、そのこと自体が矛盾します。敬って呼ぶ言葉を省略してしまっては、ないがしろにしてることになります。したがって、水仙を「金盞」と略して呼ぶことはないのです。
もちろん、今や七十二候は生活に必要な知識というよりも、日々の暮らしに季節感や彩りを与える趣味の域の分野ですから、何をもって正しい、とか間違っている、と決めつけるべきものではなくなっています。しかし、「あえて」水仙としたいのであっても、「本来は金盞花(冬知らず)のことだった」ということをきちんとと認識することは、大切なことなのではないでしょうか。
ホンキンセンカ=冬知らずってどんな花?
別名「寒咲きカレンデュラ」とも言われるホンキンセンカ。平安時代の「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」(913年)に「こむせんか」の名で登場しますから、少なくともその頃には日本に渡来していたと思われます。現在一般的なトウキンセンカ(Calendula officinalis)よりも花は小さく、黄色い野菊のような地味な印象を与えます。ただし、「金盞」=金の盃のイメージにはむしろこちらのほうがぴったり。トウキンセンカよりも背はずっと低くやや横に広がってよく枝分かれし、茎の先に直径2~3cmの鮮やかな黄色の花を上向きに咲かせます。中央部の筒状花の集まりは雌雄両性で、その周囲に橙黄色の舌状花弁が、やや上にもち上がったかたちで開き、まさに盃のかたちになるため、これを金盞にたとえられました。冬日が射すと花が開き、夕方には閉じます。
原産地は地中海沿岸で、中国には紀元前よりはいり、生薬として栽培されていました。金盞花という名のほか、金仙花、金盞兒花、長春花、長春菊などの名でも呼ばれます。
日本でもこのキンセンカは広く栽培されていたようで、明治期の博物学者・民俗学者の南方熊楠が子どもの頃に飽きずに愛読したという中村惕斎の「訓蒙圖彙(きんもうずい)」(1666年)にも図版つきで紹介され、日本人にはなじみのある草花でした。このほか貝原益軒「花譜」(1694年)にもホンキンセンカの記載があり、江戸の初期から中期には金盞花=ホンキンセンカであることがわかります。
一方で幕末、シーボルトが本国に持ち帰った標本には「金盞草」とラベリングされたものがあり、こちらはトウキンセンカと同定されているため、江戸末期にはトウキンセンカの方が金盞花として一般的になっていたように推測されます。こうした流行り廃りが、「金盞香」の花についての解釈に影響を及ぼしたのでしょう。
今より寒さの厳しかった江戸時代、そして幕府の緊縮政策でわび住まいを余儀なくされていた都の公家たちにとっては、江戸時代はいわば冬の時代。土御門泰邦は、冬の寒さに負けずに凛と咲く小さな花に、落ちぶれても我らは黄金の盃にも似た貴種なり、という意地を託したのではないでしょうか。
ホンキンセンカは、現在では栽培する人もあまりありませんが、日本各地で自生しています。小春日和の散歩がてら、さがしてみてはいかがでしょう。
和魂和才・世界を超えた江戸の偉人たち 童門冬二 PHP出版
参考サイト・写真提供 津軽海峡のデジカメ紀行/復刻版