日中はようやく春の陽気を楽しめるようになりましたが、朝晩はまだまだ寒さが残ります。温度差の激しい変化に身体がついていくのは難しいこともあります。体調管理には気をつけたいものですね。
昨年8月に天皇陛下が退位のご意向を表明されて、少しずつ平成から次の時代への準備が始まっているようです。振り返ると昭和がずいぶん遠くなったように思います。もうすぐ「昭和の日」。第二次世界大戦を経て大きく社会が変わっていったこの時代に、東京の真ん中で圧倒的な人気を集めた劇場がありました。今でも映画館の名前として残っている「日本劇場」、通称「日劇」です。今回はエンタテイメントを提供したこの劇場の歴史から昭和を眺めてみませんか?
昭和とともに始まった「日劇」の歴史は波瀾万丈!
東京の有楽町に日本劇場(通称日劇)が開場したのは昭和8年(1933)12月24日のことでした。丸くカーブした外観、広い舞台とアールデコの内装は娯楽の殿堂として偉容を誇りました。客席は3階まであり収容人数は4000人。アメリカ映画にダンスショーを組み合わせたプログラムは「陸の竜宮」といわれたそうです。開場の翌年1月にはチャップリンの『街の灯』が上映されて人気を呼びました。この時の入場料金は、1円、1円50銭、3円、5円。昭和初期に米1俵(60Kg)が10円前後でしたからけっこう贅沢なものだったと想像できます。
しかし開場からわずか7ヶ月足らずで経営不振のために閉場。その後経営を担った日活も3ヶ月で経営を放棄。現在の東宝が開場から1年9ヶ月の昭和10年9月に傘下の劇場として新たな出発をするまで、この豪華な劇場は開けては閉めての波乱の開幕だったのです。
日劇の華といえば、ダンシングチーム
開場早々に不振を極めた劇場を活性化させたのが、ダンシングチームによるラインダンスから始まるステージショーです。これはニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールのロケットガールを手本に考えられたということです。
女性ダンサーの募集は昭和10年9月、劇場の再出発と同時に新聞広告で大きく行われました。ショーダンサーを全くのゼロから養成するのです。わずか3日で300人を越える応募があったといいますから、いかに若い女性が新しい世界へ好奇心をもっていたかがわかります。その中から40人が採用され、翌年1月の初舞台までの4ヶ月間、朝の9時から夕方5時までの猛特訓を受けました。身につけるには最低3年はかかる、といわれるダンサーの技能をこのような短期間で仕上げるのは、肉体的にも精神的にも並大抵なものではなかったようです。この訓練に耐えて初舞台を踏んだのは21名でした。その後もダンシングチームの厳しい訓練とともに成長を続け、男性ダンサーも加わり演目の幅も広くなり一流のチームに育ちます。春、夏、秋に行われる三大おどりは毎年の恒例となり大好評を博します。「マツケンサンバ」の振り付けですっかりおなじみになった真島茂樹さんも、日劇ダンシングチームのスターだったのですよ。
東宝といえば宝塚歌劇団の華やかなレビューがありますが、日劇ダンシングチームのショーはエネルギッシュで愛嬌たっぷり、色気も醸し出す踊りは、宝塚とは違う魅力で観客をよろこばせていたのではないでしょうか。
娯楽の殿堂も戦争中は爆弾づくり
昭和といえばやはり第二次世界大戦を抜きには語ることができません。日本中が命をかけて生活をしている中、やはり日劇も昭和19年(1944)には閉鎖されていました。それ以降この劇場では風船爆弾をつくっていたのです。風船爆弾とは、和紙をこんにゃく糊で張り付けてつくる直径10mの巨大な風船です。これに焼夷弾をつけて太平洋の偏西風にのせてアメリカ本土まで飛ばそうというものです。作った風船はふくらまして空気漏れチェックをするので、広く大きな空間が必要ということで劇場が作業場になっていました。
働いていたのは勤労動員されていた女子挺身隊、女学生や働く女性達です。こんにゃく糊を一日中手につけて作業をしていると、手が真っ赤に腫れ上がったといいます。またせっかくつくった風船を検査のためにふくらませている時に、パンと破裂してしまうこともあったとか。そんな時は本当に情けなく悲しかったそうです。風船を使うとは、資源が欠乏してしまった日本らしい発想ですが、なんともやるせない話ですね。
昭和とともに時代を歩んだ日劇
戦後の復興と経済成長とともに日劇も元気を取り戻します。ダンシングチームのショーに続いて人気を得たのが、アメリカから入ってきたロカビリーです。昭和33年(1958)には日劇ウェスタンカーニバルが始まります。その後日本中を席巻したグループサウンズの時代にはいり、大勢の若者が日劇で熱狂します。しかしテレビが全国に普及すると劇場にわざわざ足を運ぶ人達が減ってきます。またその頃になるとかつての殿堂もすっかり老朽化して、使い勝手も悪くなり、人があふれる人気歌手のワンマンショーも新しくできたホールへと移っていき、日劇はしだいにかつての賑わいがきえていきました。
昭和56年(1981)2月15日の「さよなら日劇フェスティバル」千秋楽をもって50年の歴史に幕を下ろすことになるのです。この時だけは往年の日劇のスター達が集まり、華やかなショーと歌、踊りが披露されました。
日劇は閉鎖された後、隣にあった朝日新聞社、丸の内ピカデリーとともに昭和59年(1984)有楽町マリオンの愛称で親しまれる複合商業施設のビル群の中で映画館「日本劇場」となりました。その後平成になって改装され「TOHOシネマズ日劇」へと名称を変えています。
平成に入り日本のショービジネスは大きく飛躍を遂げています。ニューヨークやロンドンから入ってきたミュージカルは日本に根付き、今や全国で毎日のように上演され多くの観客を集めています。テレビの普及で映画産業も大いに打撃を受けましたが、テレビでは味わえないダイナミックな映像や音響効果、作り手の個性が光る作品から新しいジャンルのアニメまで、広い層にアピールする作品が揃います。
日本が戦争に進もうとしていた昭和のはじめにできた「日劇」は、失敗を繰り返しながらも新しいチャレンジを重ねて、多くの人に最新のエンタテイメントを提供する努力を続けてきました。それは平成の土台をつくってきた、勤勉といわれた昭和の人々の姿に重なるような気がしませんか。
参考:『日劇』平田伊都子