2月に入り、目に見えて日脚が長くなってきたことを感じます。梅の花も咲き始め、足元をふと見ると水仙が咲いています。凛とした姿と、甘く、それでいてすがすがしい香りは、江戸時代の武士・町人・文化人に大いに好まれ、花の乏しい冬、正月の床の間を飾る花として珍重されました。そんな江戸時代に人気を博したのが南房総から船荷で運ばれてきた元名(もとな)村の水仙。この元名水仙が潮風を受けてゆれる内房の海は、あの世界的名画の生まれたふるさとだったのかもしれないのです。
「月と花とのやどりなりけり」古くより花の里として知られていた鋸南町
「其のにほひ 桃より白し 水仙花(松尾芭蕉)」と謡われたニホンスイセン(日本水仙/ノズイセン/Narcissus tazetta var. chinensis)。その原産地は遠い地中海。それがシルクロード経由で中国に伝播、南宋の頃に修行僧が日本に持ち帰ったとも、園芸作家の柳宗民説では球根が大陸から海流に乗り日本列島に流れ着いたともいわれています。
茶の湯の世界では侘茶が確立された室町時代から水仙が好まれるようになり、千利休や小堀遠州などの茶人も大いに愛しました。また生け花でも水仙は格式の高い花として扱われ、伝書「生花七種伝」では、「陰(冬)の花水仙に限る。賞賛すべき花なり」と記されています。生花で水仙を用いる場合、特に立春までは他の花材と混ぜて生けることすらしないのだとか。
そんな水仙の、切り花出荷量で全国の7割以上を占める日本一の水仙の里が千葉県鋸南町。12月から2月にかけて一億本ともいわれる水仙が江月水仙ロード・をくづれ水仙郷・佐久間ダム親水公園などの名所で咲き乱れます。
鋸南町は、海苔や潮干狩りで知られる富津市と、リゾート地として知られる館山市にはさまれ、「房州石」の石切り場として、また千五百羅漢・日本寺などの霊場として、ドラマ「西遊記」で頻繁にロケ地にもなった名勝・鋸山の南のふもとに位置する町。
鋸南の水仙は、江戸時代の中頃には既に歳末の江戸へ船で出荷され、正月の武家屋敷や町屋に元名水仙の名で販売されていたという記録があります。寛政4年(1792)、老中松平定信が安房の国を巡視した際の紀行文「狗日記」に
「保田といふあたりより水仙いとおほく咲きたり那古寺にやすらふ頃、日の入りて空も浪も紅にそめたるが、白く三日月のみ見ゆるに黒く富士の高嶺のそびへれるぞ、つかれしことも忘れにけり、歌よみしも亦忘れつ、鋸山に宿る。風あらき野じまが崎お海づらは月と花とのやどりなりけり」
と記され、保田・元名付近では当時から水仙が、早くも栽培されていたことが窺われます。安藤広重の「安房國水仙花」にも、農村風景の中にのびのびと咲く水仙が描かれています。
けれども、鋸南の元名水仙が、現在のように大規模に栽培されるようになったのは、明治時代に下谷の花問屋・内田太郎吉が東京に大々的に市場を開拓、大いに宣伝してからのこと。鋸南の海辺に多くの水仙が自生する姿を目にした太郎吉は、香り高く姿の良い水仙が市場ニーズに応えることを確信し、東京での販路に注力します。また、地元の花卉農家にはより生産性の高い栽培法を熱心に伝授して、安定した水仙栽培を可能にしました。大正年間には房総に鉄道も開通し、内田太郎吉のこの努力は実を結び、鋸南の水仙栽培は大発展します。生産者らは大正5年(1916)には「房州生花の栽培と東京都内の生花市場の潤沢なる活況とは一に懸つて翁の功績に依るものなり」と太郎吉を称えて「水仙羅漢」を建立しました。
江戸時代には「元名の花」と呼ばれた水仙は、太郎吉の尽力によって「保田水仙」となり、そして今鋸南は日本一の水仙の里となっているわけです。
葛飾北斎の代表作として超有名なあの「神奈川沖 浪裏」。どこから描いたもの?
話変わって葛飾北斎(1760-1849)が天保2年頃起筆したシリーズ「冨嶽三十六景」、その中でももっとも有名な「神奈川沖 浪裏」は、老若男女、知らない人はいないでしょう。世界で最も有名な日本画、ともいわれ、西洋の印象派の絵画や音楽にインスピレーションを与えた名画です。
この絵はどこを視点に描かれたのか、ご存知でしょうか。「神奈川沖」というと、現在の神奈川県全域を思い浮かべ、江ノ島あたりから描いてる相模湾の景色だと思い違いしている方も多いようです。でも、江戸時代の「神奈川」というのは、東海道五十三次の三番宿・神奈川宿や、港湾・神奈川湊を指しました。現在で言う横浜市神奈川区にあたります。その沖ですから、北斎が描いた海は東京湾ということになります。東京湾から、富士山を見透かす西の景色を描いているのです。
「神奈川沖」ということは、逆から見れば「房州沖」ということになります。房州の沖、またはもしかしたら房州の海岸に立って見た絵なのではないか、ともいわれているのです。波越しに水平線の際に小さく見える富士山は、まさに内房の海岸から眺めた富士山の姿そのものです。「神奈川沖 浪裏」は、千葉から見た富士山の景色なのではないでしょうか。
というのも、この北斎の絵の元になったとされるある作品が、房総地方にひっそりと存在しているのです。それが「波の伊八」による千葉県いすみ市行元寺(ぎょうがんじ)の旧書院に伝わる欄間彫刻です。
「波と宝珠」の欄間彫刻は、「浪裏」のモチーフなのか
初代武志伊八郎信由(たけしいはちろうのぶよし)こと「波の伊八」は(1751~1824)は、安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)生まれの宮彫師。江戸時代中期、江戸彫りといわれる豪華な社寺彫刻が隆盛となりました。多くの彫刻師が腕を競いましたが、腕自慢の彫刻師たち界隈で「(恥をかくから)関東で波を彫ってはならない」と、波の表現で他の追随を許さない技量をうたわれた天才彫刻師が伊八です。上総、安房地方を中心に、武蔵、下総、相模など関東一帯に多くの社寺彫刻や仏像彫刻を残しました。
行元寺の書院欄間彫刻は、左から大きくうねりのしかかる波と波間に漂う如意宝珠(にょいほうじゅ)の構図が「神奈川沖 浪裏」の構図とそっくり。如意宝珠の位置に富士山がはめこまれているのです。さらに、行元寺に程近い飯縄寺(はんじょうじ・通称いづな寺)」には、伊八による結界欄間「波と飛龍」「波と麒麟」が残っており、こちらは北斎の波の波頭のタカの爪のような形の原形ともいわれます。伊八がこの行元寺書院欄間の波を彫ったのは文化6年(1809)、飯縄寺欄間を彫ったのが文化13年(1816)頃、そして北斎が「冨嶽三十六景」の制作に取り掛かったのが文政6年(1823)。時系列的にも北斎が伊八の彫刻を見て画題を着想した可能性は高いと思われます。
ただし、前提として北斎が伊八の「波」にインスパイアされて「神奈川沖浪裏」のモチーフにしたとしたら、それを見ていなくてはなりません。
実は飯縄寺の本堂の天井画は北斎の師匠・三代堤等琳(つつみとうりん)の手になるものなのです。北斎が師匠の絵を観るためにこの地を訪れ、あわせて行元寺の「波」を見たことは充分考えられます。さらにその行元寺には、絵師五楽院等随(ごらくいんとうずい)が描いた戸襖絵があります。等随もまた三代堤等琳の弟子で、北斎の兄弟子なのです。等随が件の戸襖絵を描いた当時、平行して伊八が「波」を彫っていました。北斎が兄弟子の仕事ぶりを見学しながら、伊八の波もじっくりと見る機械があったとしてもおかしくありません。
北斎は房総旅行にも赴いていますから、その時に直接伊八と会っているとも伝えられています。
伊八の「波」に魅了された北斎は、それをそっくりのかたちで浮世絵にしてみずにはいられなかったのでは。
北斎にとってライフワークのモチーフである富士山と、房総で見た伊八の波と南房総の荒い外海が結びつき、最高傑作が生まれたのではないでしょうか。
鋸南には伊八の手になる彫刻も残っています。元名の存林寺の須弥壇(しゅみだん)に「波と兎」「波と宝珠」が、保田の大行寺の欄間には伊八若き頃のはつらつとした「波乗り龍」が、すばらしい保存状態で残されています。北斎はこれらも房総行脚で見学し、そして振り返って波立つ海を眺めたのかもしれません。
2月5日までで鋸南の水仙祭りは終了しますが、まだまだ水仙は咲き続けます。むしろ、これから日差しが長く強くなる時期の方が香りが高くなり、ハイキングにも向いているのではないでしょうか。そして水仙と入れ替わるように、なだらかな田園の丘陵地に抱かれた佐久間湖畔、保田川沿いに頼朝桜が咲き始めます。素朴な村里に咲き乱れる花と、北斎も見ただろうあの「神奈川沖 浪裏」の原風景を見に、お出かけしてみてはいかがでしょうか。
参照『名工 波の伊八』長谷川 浩一著 鴨川書店 1993年刊
葛飾北斎:富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の視点