
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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夏の甲子園大会の熱狂は、明らかになった広陵高の不祥事問題が同時進行したことで、皮肉にもますます感動のボルテージが高まったように映った。
地元の期待を背負って大舞台でプレーする球児の姿を見ながら感慨にふけっていた。そしてメジャーリーグ取材で衝撃を受けた一コマを思い出した。
1999年6月15日(日本時間16日)、ミルウォーキー・ブルワーズの隻腕投手、ジム・アボットがカブス戦に先発し、メジャー初安打を放った感動的シーンは、今でも鮮明に覚えている。
当時のメモによると、ニューヨークのラガーディア空港を午前11時35分にたつミッドウエスト004便でミルウォーキー入り、そのままダウンタウンに向かっている。
現場に足を運んでいると、大なり小なり、区切りとか、大記録、メモリアルの瞬間に巡り合う。先天性右手欠損の投手が初めて打ったヒットを目の当たりにしたときは鳥肌が立った。
生まれつき右手首から先がないアボットが、野球とフットボールに興味をもったのは5歳だった。ビール会社に勤務した父親マイクと二人三脚でベースボールに取り組んだ。
左手にはめたグラブでボールを受けると、素早くグラブを右手の先に乗せ、左手でボールを取り出して投げる。有名になった“アボット・スイッチ”は親子で編み出した絆の証しだ。
少年時代は“バント攻め”にあったことを明かした。相手チームの打者全員にバントで揺さぶられたという。当時はまだ世間の障害者に対する意識と理解は浅かった。
息子を見守った親はどれだけ胸が締め付けられたことだろう。それでも本人に、そのみじめさが感じられなかったのは不思議だった。むしろ言動、生き方のポジティブさに共感させられた。
「これまでは疎外感もあったし、孤独だと感じたこともあった。でも他の人と違うことが楽しいと思うようになったんだ」
アボット少年は夢を追い続ける。フリント中央高にいた85年にブルージェイズからドラフト指名を受けたが契約に至らずミシガン大に進学。88年ソウル五輪で全米エースとして金メダルを獲得した。
その後、1巡目(全体8位)指名を受けたエンゼルス入りし、93年のヤンキース時代にはノーヒットノーランを達成し、世界を驚かせる。1度は引退したが、再び現役復帰を果たした。
まだDH制のないナ・リーグのブルワーズで初めて打席に立った。18打席目のことだった。カブス戦でジョン・リーバーの外角高めの直球に、右手を添えたバットから放たれた打球がショート頭上を越えていった。
当日、ミルウォーキーの球場で合流した日刊スポーツのベテランカメラマンだった山崎哲司は、見事にミートした歴史的瞬間をとらえている。試合後は汗をかいて興奮していた。
日本では西武松坂大輔のルーキーイヤーで盛り上がった。また阪神監督の初年度だった野村克也が話題をさらっていたから、米大リーグの快挙は小さい記事に終わったが、記者冥利(みょうり)に尽きる経験は忘れることができない。
アボットは「試合に負けてしまったからね」と投手として6敗目を喫したことを悔やんだ。そして記念すべき初ヒットに「ハードな球だった。忘れることはない」ともらした後で毅然(きぜん)として言い切ったのだ。
「ぼくはこれまでハンディキャップ(障害者)と思ったことがない」
どれだけその一言が同じ境遇の人々を勇気づけてきたか。通算263試合出場、87勝108敗。防御率4・25。不可能を可能に変えた生きざまは、数字で表すことはできない。それ以上に代えがたい大切な教えだった。(敬称略)【寺尾博和】