
<パドレス5-0メッツ>◇30日(日本時間31日)◇ペトコパーク
オリックス前監督で現球団スペシャルアドバイザーの中嶋聡氏(56)が日米通算204勝を挙げたパドレス・ダルビッシュ有投手(38)を祝福した。04年から18年まで選手、兼任コーチとして在籍した日本ハムではチームメートだった間柄。ダルビッシュが今でも慕う同氏が「愛弟子」に向けて愛情たっぷりのエールを送った。【取材・構成=桝井聡】
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中嶋氏は日米通算204勝に到達したダルビッシュの話題になると冗談を交えて祝福した。
「ケガさえなければ、もっと早くいっている数字だと思う。でも、素直におめでとう! でも、遅いよねって感じです(笑い)」
出会いは日本ハム時代。同氏が日本ハムに移籍した1年後の05年に、ダルビッシュが高卒1年目のルーキーとして入団してきた。
「悪ガキが入ってきたなと。けど、なんかこう、すごくかわいい。何しても許せてしまう。怒ったらちゃんとするしね。素直で。そういうところでめちゃくちゃかわいかったですね」
野球に関しては厳しく接した。ブルペンでも褒めることはめったにない。誰もが認めるポテンシャル。高いレベルを求めた。それは精神的な部分も同じ。今でも思い出す出来事がある。ダルビッシュの態度に声を荒らげたことがある。
「あれ、何年だろうな。春先に千葉で先発して、3回で6失点して、『今日何回まで投げるんですか?』って。当時はそのぐらいの感覚だった」
入団2年目、06年3月30日のロッテ戦(千葉マリン)。先発したダルビッシュは6失点して4回途中で降板した。ふてくされたような態度が許せなかった。37歳のベテラン捕手は「そんなんしよったらな…」と19歳の投手に語りかけた。
そのシーズンからダルビッシュは2桁勝利を記録する。同学年では西武涌井が活躍。2学年下では田中将が楽天に入団した。同世代の活躍にも刺激されるように、その才能が花開いた。
「どんどんうまくなりたいという欲も出てきた。その世代のトップになりたいと。プライドも絶対あるから。それもあって、いい方向に行ったってのもあるかな」
今でも師弟のような特別な関係が続く。今季も揺れ動く心情を間近で感じ取っていた。ダルビッシュは右肘の炎症から5月14日(日本時間15日)に傘下3Aエルパソの敵地ラスベガス戦でリハビリ登板。中嶋氏はその直前にもパドレスの本拠地ペトコパークで言葉を交わしていた。
「投げた後の方が怖いですと言っていた。投げた後に(右肘が)どのぐらいの反応してくるかなって。(登板後に)どうや? って連絡したらあまり良くないですねって。だけど、もうちょっと後になったら良かったですと。逆に思ったほどじゃなかったって」
ある医師からはもう1度、トミー・ジョン手術に踏み切るべきという意見が出た。それほど深刻な事態だった。1歩ずつ苦難に立ち向かう日々。簡単な道ではなかった。
探究心には今でも驚かされる。メジャー13年目を迎えた今年は春先から97マイル(156キロ)を計測。中嶋氏からすると、プラス材料に見えたがダルビッシュの考え方は違った。
「スピード上がったらみんな喜ぶんだけど、逆にそこを抑えてできることが、まだあるんじゃないかって。やっぱりスピードが出過ぎて(右肘の炎症が)きたという話もしていた。追求の仕方が人とちょっと違うからね。これから? まだまだやってほしいし、やれる気がする」
日米通算200勝、そして日本人歴代最多の204勝。かつて中嶋氏がコーチ業やスカウティングを学んだパドレスで立て続けに偉業を達成したのも何かの縁だろうか。かわいい後輩に向けたその言葉には、愛情が詰まっていた。
◆中嶋聡(なかじま・さとし)1969年(昭44)3月27日生まれ、秋田県出身。鷹巣農林から捕手として86年ドラフト3位で阪急(現オリックス)入団。強肩捕手として頭角を現す。西武-横浜-日本ハムと移り15年に現役引退。実働29年は工藤公康、山本昌に並ぶプロ野球記録。現役時代は182センチ、82キロ。右投げ右打ち。16年から日本ハムのGM特別補佐としてパドレスに派遣され、18年は1軍コーチに復帰。19年オリックスに復帰し2軍監督。20年シーズン中、西村監督の辞任を受け監督代行。21年正式に監督へ昇格し、チームをパ・リーグ3連覇に導いた。22年に正力賞受賞。