
大船渡が岩手大会2回戦で専大北上に0-1と惜敗した。同校OBの柴田貴広さん(24=オープンハウス)は、3年夏の岩手大会決勝で、佐々木朗希(ドジャース)に代わって先発マウンドを任されるも、6回9失点で甲子園を逃した。敗北を知り、喪失を知り、悔しさとともに歩んできた柴田さんが、後輩たちへ、全国の球児へエールを送った。
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19年夏、岩手大会決勝。柴田さんは花巻東を相手に先発マウンドを託された。注目を集めた佐々木朗希投手はベンチに控え、代わってマウンドに上がった右サイドスローは、先頭打者に三塁打を浴びた。「最初の入りで流れが変わってしまった」。その後の四球、守備の乱れも重なり、6回9失点。「毎イニングごとに交代してくれと思っていた」と、苦しみとともに甲子園への道は閉ざされた。
試合後、佐々木から「気にするな」と声をかけられたが、自分を責める気持ちは消えなかった。「あの試合は自分の責任。申し訳ない気持ちしかなかった」と振り返った。
柴田さんの人生には、もうひとつ忘れられない「あの日」がある。11年2月、9歳の時に父憲広さんが肝臓がんで他界した。漁師だった父の背中は、今でも鮮明に覚えている。1カ月後の3月11日、東日本大震災が東北を襲った。海から徒歩1分の場所にあった自宅は津波で流され、母、姉とともに体育館に避難した。「野球道具も全部流されてしまったけど、辞めようとは思わなかった」。
高校卒業後は大東文化大で野球を続け、新卒でオープンハウスに就職した。2年目の今年は営業成績を順調に伸ばし、役職も昇進した。「幼い頃からお金に困らない大人になりたいと思っていた」。ひとり親家庭での苦労や、奨学金を背負って大学に通った経験が、働く原動力となっている。
営業で「結果にこだわる」姿勢は、あの決勝での敗戦から学んだ。「高校の時、『佐々木だけのチーム』って言われるのが本当に悔しかった。決勝に行っただけじゃ意味がないと思った。勝たなきゃだめだと。その気持ちが今の仕事にも生きてます」と言い切った。
現在、母祐子さん(48)は地元、三陸綾里で1人暮らし。介護職を続けている。柴田さんは将来、「母に家を建ててあげたい」と言う。姉と協力し、仕送りも継続する予定だ。「母には働かなくてもいいよと言えるようにしたい」。
佐々木朗希選手とは今も連絡を取り合う仲だ。IL入りしたが、「僕たち同級生は心配していない。高校時代からマイペースで、しっかり自己管理できていた。数年後にはチームを引っ張る存在になると信じている」とエールを送った。
そんな柴田さんから、全国の高校球児へメッセージがある。「甲子園に行けるかどうかはもちろん大きい。でも目の前のチームメートと今、野球ができること自体がすごく幸せなことなんです。やり切ったと思えるまで、燃え尽きてください。高校野球の経験は、絶対に社会に出てからも生きる。僕がそうでしたから」。
9歳で父を亡くし、津波で家を失い、高校最後の夏に夢がついえた。それでも野球を続け、社会人として結果を出し、母に家を贈ろうと働いている。柴田さんの人生は、「勝ち続けた」物語ではない。だが、「負けから逃げなかった」という確かな足跡が、今を支えている。【鳥谷越直子】