
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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社会人野球の強豪だったプリンスホテル硬式野球部の創部に深くかかわった奥田裕一郎が、84年間の生涯に幕を閉じた。3月31日、老衰のため、静かにこの世を去っていたことが分かった。
明星高から進学した早大の同期には、プロに進んだ江尻亮、宮本洋二郎、大塚弥寿男らがいた。同じ時代の東京6大学は、長池徳二(法大)、広野功(慶大)、高田繁(明大)ら、そうそうたる顔ぶれだった。
奥田はプロ・アマ関係者の間では知る人ぞ知る人物だ。大学2年からマネジャーだったが、クラレ岡山では監督として、門田博光、外山義明(ともに南海)、平野光泰(近鉄)らを従えた。
プロ通算567本塁打(歴代3位)を記録した“不惑のアーチスト”で、強烈な個性の持ち主だった門田も、奥田にだけは頭が上がらなかった。大学野球をはじめ、日本高野連でも理事を務めた。
大阪場所の「武蔵川部屋」も仕切ったし、芸能界にも顔が利いた。自宅での忘年会は華やかで、たまに自宅にうかがうと、なぜか強豪校の球児が裏庭でティー打撃をしていたのは不思議だった。
奥田の遺影の前で向き合った長男・晴久は「最後は苦しまずに逝きました。やさしい父でしたが、力加減のできない人でしたね。いつもだれかがうちに来ていたように思います」と豊富な人脈をなつかしんだ。
早大の同期生で、第2次長嶋巨人の編成部長補佐を務めた石山建一は、奥田をもっともよく知る1人。早大を経て日本石油(現ENEOS)に入社、後に早大、プリンスホテルで監督を歴任した。
早大部長の樫山欽次郎から、西武グループ総帥の堤義明を紹介された石山は、入社したグループ内の国土計画(当時)から出向で早大を監督で率いた。その流れで堤から社会人チームの結成、新球場建設の指示を受けたのだ。
その石山が協力を求めたのが、クラレ岡山監督を辞した後、実業家の奥田だった。石山は「ぼくは現場の監督だから動きに制約があったので、奥田君に高校生などのスカウティングをしてもらったんです」と打ち明けた。
石山がかかわったのは伝わっているが、奥田がプリンスホテル野球部誕生の黒衣だったことは、あまり知られていない。石山は「なにもかも話せたコンビだったからね」とチーム編成に奔走したわけだ。
1978年9月18日、西武鉄道社長の堤が都内で会見し、プリンスホテルの社会人野球チーム結成を明らかにする。同時に西武所沢球場が建設中だったこともあって、プロ野球の誘致が話題になった。
堤は「まったく関係ありません」と否定した上で「将来については何も言えない段階です」としたが、実際は水面下では着々と事態は動いた。
10月12日、クラウンライター・ライオンズが株式を国土計画に譲渡する形で西武ライオンズが誕生。当時の「プリンスホテル」は「西武」への“抜け道”ではないかと指摘されたようだ。
石山は創部されたプリンスホテル助監督から監督に就く。また奥田は副部長としてらつ腕を発揮した。79年から22年間活動し、都市対抗に計14回(89年優勝)、日本選手権に計6回出場の名門だった。
野球界にさまざまなコネクションを持ち続けたことで、常に奥田は人を引きつけたように映った。後年、企業スポーツの休廃部が相次いだが、栄光と挫折を知り尽くした人だった。(敬称略)