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スーパースターの本音「長嶋茂雄を続けるのはしんどいですよ」努力、痛み見せず野球を人気競技に


1974年からプロ野球界を代表する存在として活躍し続けた長嶋茂雄監督が、89歳で亡くなりました。肺炎のために都内の病院で逝去し、その際、ファンのために尽力した彼の姿勢が光りました。長嶋は現役時代から退場後も、ファンの期待に応えることを何よりも大切にしていました。引退セレモニーで人々を感動させ、監督時代には試合前のシミュレーションを緻密に行うなど、常に一流のプロフェッショナルとして世間を魅了しました。彼の死によって、日本のプロ野球は一つの時代の終わりを迎えましたが、彼の精神は次世代のスター選手たちに受け継がれています。

長嶋茂雄監督ビールかけ(1994年10月8日)

ミスタープロ野球が逝った。巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。

国民的スーパースターとして、戦後の復興期から高度経済成長時代の日本を照らし続け、巨人の監督としても5度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。04年に病に倒れてからも野球界に熱いまなざしを注ぎ、最近ではドジャース大谷翔平選手(30)の大活躍を心から喜んでいた。野球界に隆盛をもたらした最大の功労者が静かに息を引き取った。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は次女の三奈さん。後日、お別れの会が開かれる。

  ◇  ◇  ◇

とうとうこの日が来た。長嶋さんが亡くなった。89歳、6月3日。野球を愛し、「3」を愛した長嶋さんらしい最期だった。

長嶋さんとの「出会い」は1974年(昭49)10月14日だった。当時9歳だった私は母の実家に遊びに行っていた。母より5歳下で、20代後半だった叔父がテレビの前で直立不動になり、思い切り泣いていた。画面では長嶋さんが引退セレモニーで涙をぬぐっていた。「大のおとなを号泣させる長嶋っていう人はどんな人なんだろう」。子供心に強烈な印象が残った。

記者になって長嶋巨人を担当することになり、子供のころに抱いた疑問の答えを探した。仕事柄、顔と顔を突きあわせて話をすることがあるが、不思議なことに長嶋さんから「口臭」を感じたことがない。瞳も青味がかっているし、なんとも言えない透明感があった。確かに普通の人とは違うオーラがあった。

しかし、本当の魅力の源は、とてもシンプルだったと思う。

「期待に応えたい、みんなを喜ばせたい」

現役、監督時代問わず、長嶋さんはグラウンドに出るとまず、カメラマンがどこにいるかを探した。どんなポーズをとれば格好いい写真が撮れるか、計算していた。大差で負けている試合に投手をつぎ込み、「ファンがあきらめていないのにあきらめるわけにはいかない」と言った。松井秀喜には「我々にとっては130分の1かもしれないが、一生に1度しか球場に来られないファンもいる」と言って、毎日プレーすることを望んだ。

努力は見せなかった。現役時代に足の指を骨折しながら口笛を吹いて球場を後にし、帰宅後、関係者に氷を持ってこさせたこともあった。監督時代は毎試合前、1回表のプレーボールから9回試合終了までシミュレーションをして臨み、思い通りにいかなかった時は、帰りの車の後部座席から前の座席をガンガン蹴って、ストレスを発散した。

「『長嶋茂雄』を続けるのはしんどいですよ」と冗談めかして話したこともある。それでも、苦しいところは外に見せず、常に明るく華やかに振る舞った。多くの人の期待を受け止め、視線を背負い、期待通りかそれ以上の結果につなげることを、無上の喜びとしていた。だからこそ、あれだけ人を引きつけ、熱狂させたのだと思う。

王貞治氏らとともに巨人のV9をけん引し、プロ野球を日本で最も人気のあるスポーツに押し上げた。長嶋さんが築いた土台の上に原辰徳、掛布雅之、イチロー、松井、そして大谷翔平が出現した。長嶋さんがいなかったら、長嶋さんが「長嶋茂雄」でなかったら、次々にスーパースターが生まれるほど、プロ野球界は発展しただろうか。

長嶋さんは亡くなった。しかし、ファンを一番に考え、ファンの期待に応えるために努力を惜しまない、長嶋さんのスピリットは受け継がれていく。願わくは永久に。【元巨人担当・沢田啓太郎】

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