
プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。
この日の午後、ソフトバンク王貞治球団会長(85)が読売新聞東京本社ビルで取材に対応。率直な思いを口にした。
一問一答<2>は以下の通り
-現役時代を振り返って
そうですね。僕はもう全部1年目入った時に、長嶋さんが前の年にホームラン王と打点王を取って。入った時から長嶋さんは特別な存在でした。ジャイアンツの中でもね。私は高校生で入ったんですけど、長嶋さんと同じ部屋にさせられて。どちらかというと鈍い人間ですから、あまり長嶋さんと同じ部屋にさせていただいたってことを特別に思う部分があんまりなかったというところでして。4人兄弟で一番下の末っ子として育ってきて、案外自由気ままに育てられたので。だから今振り返ると長嶋さんに随分失礼なことをしてしまったんじゃないかと。私はとにかく寝相は悪いわ、いびきはかくわでね。長嶋さんは辛かったんじゃないかと。1週間か10日ですぐ私は部屋替えをさせられましたから。長嶋さんからは一言も言われなかったけど、やっぱりそういう風なことで随分迷惑はかけてたんだろうと。
-チームを2人で引っ張った時期も
長嶋さんは特別な存在でしたからね。とにかく、グラウンドでのプレーだけじゃなくて、やはり人となりというかね。とにかくそういった、ユーモアがあった部分はあったし、明るいっていうね。だから、長嶋さんならなんでも許されちゃうっていうような、不思議な存在でした。だから、打てなくても、落ち込むわけじゃないし。打ったからといって偉そうにするわけでもないし。はっきり言って、不思議な存在でしたよね。不思議な魅力というかね、そういったものはありますかね。だから、ファンの皆さんにも、またメディアの皆さんにもね、やっぱり特別な存在として扱われてたんじゃないかな思いますね。私も長嶋さんがいて、やっとホームランが打てるようになって、少しずつ長嶋さんと比較されるようになって。私はもうとにかく、存在感ではもう全然かないませんから。とにかくバットで存在感を示すしかありませんでしたから。ホームランをとにかく追っかけて。だんだん長嶋さんとね、少しずつ近づいてるなっていう感じを、自分なりにね。もっと近づきたいっていうかね。数字でしか争えませんでしたから。だから、とにかく追いつき追い越せっていう思いではプレーしてましたね。
-お互い監督になられてからも、00年の日本シリーズで対決
私たちも、なんとかそういうことを実現したいって思いを持ってましたけど。ファンの皆さんにもね、やっぱりそういう風に思われてたんじゃないかと思うんですよ。それがちょうど区切りのいい2000年というね、ああいう世紀の変わり目の時に実現できて。特にジャイアンツは元々強いチームでしたけど、私たちホークスはなかなか勝てなくて、やっと私が5年目にやっとそういう風な形になって。それがON決戦が実現できて。これは長嶋さんにとっては特別なことじゃなかったかもしらんけど、私にとっては本当特別な素晴らしい日本シリーズだったんじゃないかと。だから、本当のこと言うと勝ちたかったんですよ、だけど、やっぱり、2勝4敗という形で負けてしまいましたけど、やっぱりジャイアンツ強かったですよ。なので長嶋さんが思い描いてきたチーム、ピッチャーも強かったしバッターも強かったし。ジャイアンツ、ホークスだけじゃなく他のチームもそういう思いだったんじゃないですかね。
-改めて長嶋さんにどんな言葉を
ありがとうございました、という言葉ですべて表せると思います。プロ野球の選手がみんな長嶋さんの方を向いてましたよね。ピッチャーでもそうでしたからね。特別な存在で頭の中に長嶋さん、長嶋茂雄という人が常に存在していたというね。私はここでそういう話してますけど、当時の人たちみんなに聞いても同じ答えをすると思いますよ。それくらい大きな存在だったんですね。だから一緒にやってる我々でも大きな存在だったってことは、ファンの人からしたらね、長嶋さんは特別な存在だと思いますね。野球界の熱気は長嶋さんの存在があったからこそ、昭和33年からね、なんて言うんですかね。野球の好きな人たちだけの世界だったでしょ、その時代までは。それをやっぱり野球の関心が無かった人たちにも、どうだったのかな、「長嶋打ったのかな」とかいうような時代に入ったのは、我々のことも含めてものすごく大きな輪になったと思いますね。これはもう、他の人にはそういうことはできなかったと思いますね。とにかく、こうなってみて、存在の大きさというのを改めてね、それ以上という思いが新たに思い知らされたというか、ありますね。