
巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。長嶋氏は「ミスター」の愛称で親しまれ、現役時代は国民的スーパースターとして活躍。引退後は巨人の監督に就任し、04年アテネ五輪でも監督を務めた。同五輪直前に脳梗塞を患い右半身にまひが残ったが、懸命なリハビリを継続。昨夏の東京五輪では王貞治氏(85)松井秀喜氏(50)と開会式の聖火ランナーを担った。選手の直接指導や試合観戦など、野球界に熱いまなざしを注ぎ続けていた。
◇ ◇ ◇
戦後の野球界を彩ってきた「ミスター」が天国に旅立っていった。長嶋氏は立大から巨人に入団。1年目の58年はデビュー戦で金田正一(国鉄)に4打席4三振を喫するも、本塁打王(29本)と打点王(92打点)に輝き、新人王を獲得。2年目の59年には6月25日の天覧試合で村山実(阪神)からプロ初のサヨナラ本塁打。実力はもちろん、華麗なプレースタイルと明るい性格で、絶大な人気を誇った。
65~73年には、王との「ONコンビ」で巨人のV9に貢献。10連覇を逃した74年に現役引退を表明した。10月14日の引退セレモニーでは「わが巨人軍は永久に不滅です」と伝説的フレーズを残し、背番号「3」は永久欠番となった。
75年からは「90」を背負い、指揮官に就任した。1年目は球団初の最下位に沈んだが、翌76年からリーグ2連覇。しかし、3年連続で優勝を逃した80年、退任に追い込まれ、「男のケジメ」と巨人を去った。その後、12年の浪人生活を経て、92年秋に巨人監督に復帰。ドラフト会議では星稜・松井秀喜を4球団競合の中で引き当てた。
第2次政権での背番号は「33」。94年10月8日、中日と史上初の同率最終戦を制し、そのまま監督として初の日本一となった。96年には最大11・5ゲーム差をひっくり返す大逆転劇「メークドラマ」でリーグを制した。
00年から背番号「3」が復活。ダイエー王監督との日本シリーズ「ON対決」を制し、監督として2度目の日本一。01年9月に電撃退任を発表し、巨人の終身名誉監督に就任。02年12月に2年後の04年アテネ五輪の日本代表監督に就いた。
大会直前、病魔に襲われた。04年3月に自宅で体調不良を訴え、緊急入院。「中程度の脳梗塞」で、アテネ五輪の指揮を断念。右半身にまひが残った。それでも不屈の精神は不変だった。懸命なリハビリを継続し、07年には巨人の宮崎キャンプを視察。「絶対勝つ。勝つ、勝つ、勝つ!」とあいさつし、ファンを安心させた。
13年には松井とともに国民栄誉賞を受賞。5月5日、東京ドームで行われた授賞式では始球式が行われた。松井が投げ、当時の原辰徳監督が捕手を務める中、片手でスイング。全国に笑顔と勇気を届けた。
18年7月には体調が優れず入院し、検査で胆石が見つかった。だが、心は折れなかった。退院後も妥協のないリハビリとトレーニングを続け、昨夏の東京五輪では王氏、松井氏と開会式の聖火ランナーを務めた。21年10月には野球界初の文化勲章を受章した。
巨人はもちろん、常に野球界を気にかけていた。ゲームだけでなく、ジャイアンツ球場にも足を運び、後輩たちにアドバイスを送った。22年9月に転倒し、脳内の出血のため入院した。
その後は療養を続けていたが、23年には3月31日の中日との開幕戦と11月23日「ジャイアンツ・ファンフェスタ 2023」で東京ドームに登場。足腰のリハビリの進み具合などで退院はできていない中、ファンフェスタでは阿部慎之助新監督からマイクを託さえると、左手で握り「来年は絶対に勝とう! 勝つ、勝つ、勝~つ!」と3万9527人が集まった球場にとどろかせた。最後に公の場に姿を見せたのは今年3月の大リーグ開幕シリーズでドジャース大谷翔平投手(30)と対面した時だった。
「ミスター」の笑顔と勇姿は永久に不滅のまま、人々の心と記憶に刻まれている。