
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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ドジャース大谷が、本拠地開幕になったデトロイト・タイガース戦で本塁打を放った夜、思いがけない写真に巡り会った。
その日はマツダスタジアムで広島対阪神の開幕ゲームをネット裏から見ていた。阪神が勝利を収めた後でその人と待ち合わせることにした。
山口県岩国市出身の鵜飼秀行は、かつて地元で「20世紀FOX(極東)映画会社」を代々経営した家に生まれた業界人だ。
鵜飼から日本料理屋で見せられたのは、1930年から40年代のヤンキースで活躍し、伝説の外野手だったジョー・ディマジオが来日した当時の写真だ。
ヤンキースで通算2214安打、361本塁打を記録した。タイトルは首位打者2回、本塁打王2回、打点王2回を獲得。背番号5はヤンキースの永久欠番になっている。
1954年、すでに引退していたディマジオは、新人ハリウッド女優のマリリン・モンローと結婚して世間を驚かせた。当時のモンローはFOXの専属女優だった。一枚の写真には新婚旅行で岩国飛行場に降りた2人が写っている。
鵜飼の祖父・喜一(きいち)が創業した映画会社は、父・義美(よしみ)から、三代目の秀行に受け継がれたが、その後、残念ながら閉館に追い込まれる。
写真を前に鵜飼は「当時国際空港というと、羽田と岩国にしかなかったんです。ちょうど祖父と、父が一緒に出掛けたと思います」と話し始めた。
「ひょっとしたら新聞社からいただいた写真かもしれませんが、おそらく祖父か、父が撮った写真でしょうね。スーパースターのディマジオでしたが、それ以上に有名だったモンローはさらに騒がれたようです」
ルー・ゲーリックがユニホームを脱いだ後のヤンキースの強打者で知られたディマジオが、1941年に記録した56試合連続安打のメジャー記録は、今も破られていない。
米カリフォルニア大学サンタバーバラ校に映画論を学ぶため、語学学校生として留学していた鵜飼は、同じ敷地内のコンドミニアムで暮らしたディマジオの姪っ子で、大学に通ったデビィ・マッキロップと知り合いだった。
「姪っ子さんからはディマジオの直筆メッセージ付きのサインボールをもらいました。小さい頃から岩国基地内に入って野球をしてたし、巨人の長嶋さんがディマジオのファンだったというのを知っていたので、すごくうれしかったです」
確かに、鵜飼がプレゼントされたそのサインボールは、文字が薄くなったが「Best Wishes(これからもよろしく) Joe Dimaggio」と直筆で添えられてあった。
モンローがチヤホヤされると、ディマジオが嫉妬した。野球教室で夫の不在が続くと、モンローは米兵慰問のため、さっさと日本を飛び出し、さっさと朝鮮半島に行ってしまった。
そんな新婚生活は長続きしなかった。結婚から9カ月後、2人は離婚。しかしモンローが亡くなったとき、夫になった男のなかで訪れたのは、ディマジオだけだったという逸話も残されている。鵜飼は「大谷はルース、ディマジオを超える存在かもしれませんね」という。
心優しき大リーガーだったのだろう。日本では戦後復興期のプロ野球選手を指導する機会もあった。メジャーリーグが大谷を「和製ディマジオ」とだぶらせて評したことがあった。その活躍ぶりに接するたびに、ディマジオ伝説が脳裏をよぎる。(敬称略)【寺尾博和】