阪神タイガースの監督として85年に球団史上初の日本一を達成した日刊スポーツ客員評論家の吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分、脳梗塞で亡くなった。91歳だった。京都市出身。通夜と葬儀・告別式は家族葬で行う。現役時代は華麗なフィールディングで「今牛若丸」と称され、引退後は阪神監督を球団最多の3度歴任。打倒巨人を生涯の信念とし、阪神を愛し続けた猛虎のレジェンドが天国に旅立った。
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入社2年目で阪神担当に就いた。シーズン中の9月に表面化した監督問題で、吉田義男さんは有力候補の1人だった。命じられるままゴルフ場に出向くと吉田さんを単独取材できた。「わたしは63歳でっせ。それがこたえですわ」。そのまま紙面の見出しになる、気の利いた返答を聞き、てっきり辞退するものだと思い込んでいた。1カ月後、3度目の監督に就任された。
その第3次政権の2シーズンも担当記者として接することができた。有名な「タテジマをヨコジマにしてでも」の口説き文句でFA清原和博をぐらつかせるなど、戦力補強、チーム強化にかける情熱は、63歳を超えた高齢を感じさせなかった。
監督勇退後は日刊スポーツの評論家に就かれた。2011年の春季キャンプ取材をアテンドすると、事前から体調が思わしくないと訴えていた。吉田さんからそのような弱音を聞くのは珍しいどころか初めてのこと。球場、キャンプ地ではかくしゃくとされていたが、帰りのレンタカーに乗り込むとすぐ、ぐったり横になった。
宿泊ホテル内の飲食店で夕食をともにしても、お酒は頼まず、お鍋で口に運ぶのも野菜ばかり。「年でしょうか。お肉とか脂っこいもの、受け付けませんでね」。ぽつりぽつりとこぼしていると、隣の席にいた若い男女のグループから「監督」と声をかけられた。
キャンプ見学にきた阪神ファンの集まりだと知った吉田さんは別人のようにエネルギッシュに振る舞った。彼らのためにワインを注文して自らもぐいっとあおると、敬遠していた豚肉、牛肉もモリモリ食べ出した。「みなさん誰のファンでっか。そうでっか。今年は期待できまっせ」。ファンとのタイガース談義で活力を取り戻したように、翌日の取材ではいつも以上に精力的に首脳陣、選手を鼓舞して回った。
評論家としてだけではなく、85年日本一メンバーの親睦会「天地会」を主宰するなど、長らく「唯一の日本一監督」の役割を演じてきた。阪神に関わる吉田さんの姿は、いつも年齢を忘れさせ、若いとさえ思わせた。65歳でユニホームこそ脱いだが、生涯を通してタテジマに袖を通していたように映る。その背に光るのは永久欠番「23」か、選手の手で2度宙に舞った「81」か。背番号がどうであれ、今も心のユニホームはまとったまま球団90周年の節目のシーズンを見つめ続けているのだろう。【96~98年阪神担当・町田達彦】