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元阪神球団社長の三好一彦さん、吉田義男さん訃報にショック隠せず「気持ちの整理がついていない」


阪神タイガースを初の日本一に導いた吉田義男監督が91歳で亡くなりました。吉田監督は現阪神元球団社長の三好一彦氏と共に、強いチーム作りに努めてきました。二人は学生時代からの旧知の仲で、阪神のリーダーシップを担い、1985年のリーグ優勝そして球団初の日本一を達成。三好氏は監督就任において吉田監督をサポートし、密かに動いて監督職を引き受けさせました。吉田監督の存在は、阪神ファンのみならず、球団の歴史に深く刻まれています。

96年10月、フランスから帰国した阪神吉田義男新監督(右)と出迎える三好一彦球団社長

プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。

   ◇   ◇   ◇

吉田さんの訃報に、元阪神球団社長の三好一彦さん(94)もショックを隠せなかった。互いに戦友、盟友と表現して、強い阪神タイガースづくりに励んだ間柄。「びっくりして、今は気持ちの整理がついていない」と肩を落とした。

「体調が悪いと聞いていたので、お見舞いに行かなければと思った矢先のことだったので、驚きました。わたしより3歳年下の吉田さんは、一緒に戦ったという意味では“戦友”でしたが、でもそれを通り越した“同志”です」

ともに旧関西6大学野球リーグの野球部でプレーし、三好さんは神戸大の主将、3歳年下の吉田さんは立命大。学生時代から旧知の仲だった。

その後、2人は阪神で顔を合わせる。1984年(昭59)、4位で退任した安藤統男監督の後任として、吉田監督の招請に動いたのが、阪神電鉄の西梅田開発室長に就いていた三好氏だった。

村山実氏も候補に挙がったが、最有力候補の西本幸雄氏に固辞された。久万俊二郎オーナーの密命を受けた三好氏は、極秘裏に吉田監督を口説き落とした。

吉田氏が監督を受諾する条件が、三好氏のバックアップだった。背番号1から81に変わって2度目の登板となった吉田監督とは、頻繁に密会を重ねてチーム強化策を話し合った。

力を合わせ、85年の21年ぶりのリーグ優勝、球団初の日本一につなげた。8月の日航機墜落事故で球団社長の中埜肇を失う中、チームは勝ち進んだ。

「昭和59年は水面下で交渉して監督を引き受けてもらいました。そして(85年からの3年間で)天国と地獄を味わい、阪神淡路大震災後で困っているときには3度目の監督を受諾してもらいました」

吉田氏が3度目の監督に就任した97年、球団社長は三好氏だった。「もう監督はこりごりというところを引き受けてもらいました」。

清濁併せのむ間柄。「これからもずっと、タイガースのことを思ってくれていると思います」としのんだ。【寺尾博和】

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