読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏(98)が19日午前2時、肺炎のため東京都内の病院で死去した。
2004年(平16)に起きた「球界再編騒動」では、10球団1リーグ制への移行を支持。プロ野球選手会と激しく対立した。
当時の古田選手会長がオーナー陣との直接会談を求めたことに「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。たかがといっても、立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をするなんて協約上根拠は1つもないよ」と発言。ファンの反発を買い、楽天が新規参入して1リーグ制を回避する大きな潮目となった。
当時、現場で取材した記者の回顧をアーカイブ配信する。(2019年2月5日、日刊スポーツ紙面で掲載、敬称略)
----◇--◇----
ピリピリ感などみじんもなく、いつもと同じ雰囲気だった。「10球団1リーグ」は疑う余地もないほど、自然な流れとなっていた。数日後、世論を巻き込む大騒動になることなど、誰も想像できなかっただろう。
04年7月8日。皇居の堀に面した東京・千代田区の旧パレスホテル。行きつけの料理店から出てきた巨人オーナーの渡辺恒雄(当時78)が、読売新聞社内のNO・2、読売新聞グループ本社社長の内山斉(ひとし=当時68)と上機嫌で出てきた。
「『御宿かわせみ』を見たいから解放してくれ」。そう言う表情は、まさに好々爺(や)のそれ。このころ渡辺は「渡る世間は鬼ばかり」などドラマを見るために早々と帰宅することも珍しくなかった。
近鉄の合併、そして「もう1つの合併」が水面下で進み、12球団の経営者には1リーグ制移行への“楽観ムード”が漂っていたように見えた。
さらに時計の針を戻す。その日の夕方、巨人担当だった私は、労組プロ野球選手会会長を務めていたヤクルト古田敦也を取材したヤクルト担当の取材報告(古田がオーナー陣との話し合いを希望している)に関し、同オーナーの反応を取るようにデスクから指示を受けた。柔和に囲み取材に応じた渡辺にこう聞いた。
「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるのですが、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できればオーナー陣と会いたいと」
激高する様子もなく、穏やかかつ淡々とした表情で返してきた。
「無礼なことを言うな。分をわきまえないといかんよ。たかが選手が。たかが選手だって、立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をする(野球)協約上の根拠は1つもない」
当時の映像は在京テレビ局1社しか撮影していない。改めて当時の映像を何度も見返してみた。
時に過激な物言いで物議を醸すこともあった渡辺。だからこそ、いつもの“悪癖”が出たという捉え方しかできなかった。その日に書いた原稿は13字詰めで30行程度。しかも1面、3面、2面の次のニュース価値とされる5面の扱い。ただし見出しだけは刺激的に躍っていた。「渡辺オーナー暴言 『無礼だ たかが選手が』」。
翌9日、東京・高輪のホテルで行われた読売新聞販売店の会合に出席した渡辺の表情は前日までとは一変、まさに鬼のようだった。「今後一切しゃべらんからな! 君たちは選手会と俺をケンカさせる扇動ばかり一生懸命やっているが、そういうのに一切引っ掛からんからな! 一切しゃべらんっ、それだけだ!」。
以降、世論はもちろん連合まで巻き込む騒動に発展。共闘と思われた阪神にも反旗を翻され、1リーグ制移行の旗振り役だった巨人は追い込まれていく。
渡辺は当時の録音テープ、古田発言などを徹底的に調べ尽くす。新聞、雑誌などで、オーナー陣との話し合いを求めていたのは真中で、古田ではない。つまり古田発言は虚構で「日刊スポーツS記者によるはめ取材」との反論を開始。懇意にしている政治評論家、作家もテレビ、自著などで同オーナーを擁護し、私を名指しで批判。しかし時すでに遅し。世論、そして球界は1リーグ阻止へ一枚岩となっていた。
当時、渡辺と行動を共にすることが多かった内山と、昨年末に話す機会があった。読売新聞は批判の矛先になり、不買運動の動きすらあった。逆風を経営のトップはどう感じていたのか? 「いや、そんなことはなかったと思いますよ」。紛れもない本音だろう。しかし「たかが選手が」を機に、1リーグ制移行の流れは一変した。【沢畠功二】