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川淵三郎氏「花嫁にいいお土産ができましたね」26歳の時、教えられた記憶…賀川浩さん悼む


日本のサッカージャーナリズムの草分け的存在、賀川浩氏が99歳で逝去した。賀川氏は長年にわたり国内外のサッカー取材に従事し、その功績により2010年に日本サッカー殿堂入りを果たし、2015年にはFIFA会長賞を受賞した。産経新聞に1952年入社後、サンケイスポーツ(大阪)で編集局長を務め、定年後はフリージャーナリストとして活躍。ワールドカップは14年のブラジル大会まで10回取材した。川淵三郎氏は、賀川氏の温厚で選手の心情を理解しサッカー愛に満ちた取材スタイルを称賛。賀川氏の記事は常にサッカーを良くすることが第一義だったと述べた。日本サッカー界に与えた影響は計り知れず、サッカー記者としての彼の遺産は今後も生き続けるだろう。

川淵三郎氏=2023年10月3日

国内外のサッカーを長年取材し、日本のサッカー記者の草分け的存在だった賀川浩(かがわ・ひろし)さんが5日午前、老衰のため神戸市の病院で死去した。99歳。神戸市出身。日本サッカー協会(JFA)相談役、川淵三郎氏(88)が追悼した。

僕にとって賀川さんの思い出といえば1962年12月13日の産経新聞のコラムだ(当時26歳)。三国対抗サッカーの真っ最中の12月11日、僕は日本代表の合宿を抜け出して大阪で結婚式を挙げ、その日の夕方の便で東京に戻った。脊椎分離でB代表に落ちていた僕は、翌日のディナモ・モスクワ戦でなんとしても活躍したかった。試合は2-2で引き分けに終わったが、前半44分にゴールを決めた。

試合後に賀川さんに「花嫁にいいお土産ができましたね」と言われ、「ああ、こういうときはそういう発言をすればいいのか」と教えられた記憶がある。当時、新聞に戦評は出てもコラムが載ることは少なかったのだが、翌日の産経新聞には僕のことを書いた賀川さんの記事が掲載され、それがとてもうれしかった。

賀川さんはとても温厚な方で穏やかに取材対象者に話しかける、当時としては稀な記者だった。選手の心情をよく理解されていたのだと思う。厳しい記事も書かれたと思うが、僕の長いサッカー人生の中で賀川さんの記事で不快になったことは一度もない。サッカーを良くしようという思いが第一義にあった。サッカーへの愛情に満ちた、日本を代表するサッカージャーナリスト、それが賀川さんだった。

賀川さんに心からの哀悼の意を表します。

賀川さんは1952年に産経新聞社に入社。サンケイスポーツ(大阪)で編集局長などを歴任し、定年退職後にフリーとなった。日本サッカー発展への功績が認められて2010年に日本サッカー殿堂入り。15年には国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を日本人で初受賞した。W杯は14年ブラジル大会まで計10度取材した。

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