<We love baseball>
節目に立ち会う人というのがいるもので。今季限りで現役を引退したロッテ井上晴哉内野手(35)もその1人だった。
10月30日、井上は秋季練習中のZOZOマリンにあいさつに訪れた。区切りの日。自分の思い出話だけしたっていい日だと思う。だが囲み取材では、安田と山口に「次はお前らの番だ」とハッパを掛けたことなど、後輩の名前をたくさん挙げながら、具体的なエピソードを話した。
いつも見出しが立つことを言ってくれる選手だった。この日の弊社のデスク(どう紙面掲載するかを決める上司)も、かつてのロッテ担当だった。囲みの内容を報告すると「最後までサービス精神旺盛だね」と言われた。そのとおりの人だった。
初めておもてなしを受けたのは、まだ「アジャ」になる前。井上が大学3年生の春にさかのぼる。当時アマ野球担当になりたてで、東京・八王子市内の中大寮に仕込み取材に行った。仕込みとは、試合で活躍した時に「こんな人」と紹介できるよう、事前に話を聞きに行くことだ。
手首が柔らかくなった理由とか、お菓子作りが趣味なこととか。質問するとほぼエピで返ってくる。書き切れないほどの“お土産”をもらった。気付けば3時間がたっていた。いや正確に言うと、1時間を過ぎたあたりから「時間大丈夫?」と何度か聞いた。そのたびに「大丈夫です!」と元気に返答されて3時間になった。記者経験の中で、この最長記録が破られたことはない。多分、今後もないだろう。
13年にロッテ担当になった。ドラフトで井上が5位指名された。契約時には大阪の日本生命まで取材に行った。12月に控えた浦和の菓子工場見学がいかに楽しみかを「僕もチョコのラインに流れたい」と、独特の言い回しで表現。「コール・ミー、アジャ」をはじめ、この後、新人らしからぬリップサービスを量産することになる。
18年、再びロッテ担当に戻った。ひとまず着任のあいさつをと思い、何度目かの名刺を持って行った。「何枚も持ってるからいいですよ、鎌田さん」と言われて、出しかけた名刺をしまった。顔は覚えていても名前はそうでもない、という人は結構いる。ちゃんと人の名前を覚える人なんだな、と思った。
覚醒の年だった。自己最多の24本塁打を打った。11月、チームの台湾遠征に同行した。昼食を一緒にとった後、帰りの車内で突然、こう聞かれた。「弟がプロで4番になった気分はどうですか?」。
他にも同乗者がいたので、最初は自分に言われていると気付かなかった。学生時代から知る選手をずっと見ていると、親戚のような感覚になることがたまにある。逆もそうなのかもしれない。アジャはその後しばらく、私を「姉御」と呼ぶようになった。
陽気といえばそうかもしれない。ただ、根が明るいからおもしろいことを言っているというより、それ以上に相手を楽しませようとして行動する人だと感じている。陽キャというよりも、優しい気遣いの人だと思っている。
引退すると聞いた時は「さびしいねえ」と言ってしまったし、あえてくだけた表現をすれば本当に「いいやつ」だった。11月の人事で異動した私にとって、最後の野球現場が10月30日のマリンになった。
2010年の春、野球担当になってまもなく20歳の井上を取材してから、現役の最後まで見届けられた。井上は「鎌田さん、いつもいましたもんね」と言っていた。いいご縁に恵まれた。11年間のプロ生活、そして小4から休まず続いた選手生活。本当にお疲れさまでした。【13年、18年ロッテ担当=鎌田良美】