starthome-logo 無料ゲーム
starthome-logo

「怪童」中西太が銅像建立断り続けた理由、故郷高松には夫人父で名監督の銅像があった/寺尾で候


「怪童 中西太さん お別れの会」会場に飾られた写真(2023年11月撮影)

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

   ◇   ◇   ◇

かつて「怪童」の異名をとった西鉄ライオンズのスラッガーで、名伯楽だった中西太の銅像が故郷の高松に建立される。亡くなって1年が経過し、かねてから持ち上がっていた計画が本格化した。

銅像が建てられる高松市立中央公園は、本人が青春時代を過ごした立中央球場の跡地。戦後の1947年(昭22)、高松市が復興の区画事業のため確保した野球場として完成した。

高校をはじめ、プロ野球の公式戦が開催されるなどにぎわいをみせた。地元にとって戦後復興のシンボルだったが、老朽化と県営球場(現レクザムスタジアム)への移転に伴い、1982年に閉鎖された。

高松市では、27年初夏のリニューアルを目指して中央公園再整備事業に取り組んでいる。議会でも、地元のヒーローの銅像の設置場所を確保することが課題として取り上げられてきた。

今後は6月初旬をメドに関係者で発起人会を発足させる。その後、実行委員会を設立し、クラウドファンディングなどを通じて支援金を集める計画を推進していくようだ。現時点で、銅像については寄贈に向けてのスケジュールを想定している。

「野球王国」と称された高松だけに逸話に事欠くことがない。1958年、巨人が高松で二次キャンプをした際、新人だった長嶋茂雄が、中央球場で行われた対阪急のオープン戦で“プロ1号”を放っている。

中西は高松一高で春夏3度甲子園に出場した。「おれのふるさと、原点だよ」。貧しくて、娯楽のない時代に育った少年にとって、“野球”は生き甲斐で、中央球場は“聖地”だった。

西鉄入りした中西は、首位打者2回、本塁打王5回、打点王2回など数多くのタイトルを獲得し、黄金期を支えた。指導者としては計8球団を渡り歩いて選手、人材を育てた。

実は中西が健在だった頃、銅像建立の話題が上がったことがある。しかし本人が「わたしなどおこがましい」と首を横に振り続けたのは、中央公園には高松出身で名監督だった三原脩、水原茂の銅像が立ち並んでいるからだった。

三原は西鉄、水原は巨人のユニホームをまとった。特に、名将三原は中西にとって西鉄時代から仕えた師匠で、義父にあたる。そこに郷土愛を抱きながら、野球界に貢献した中西が銅像になって寄り添うことになる。

一周忌を迎える5月11日の命日を前に、白い胡蝶蘭に囲まれた遺影と“再会”した。三原の愛娘で、中西夫人・敏子と向き合って、少しだけ思い出話に花を咲かせる。あの豪快で、人なつっこい笑顔に見守られながら…。(敬称略)

    Loading...
    アクセスランキング
    game_banner
    Starthome

    StartHomeカテゴリー

    Copyright 2024
    ©KINGSOFT JAPAN INC. ALL RIGHTS RESERVED.