
プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌが連名で発表した。
長嶋さんの天覧試合を復刻する。
<1959年(昭34)6月25日>
セ・リーグ第12節3日目の25日はプロ野球史上初の天皇、皇后両陛下をお迎えしての巨人対阪神11回戦、宇部で大洋対広島15回戦、中日で中日対国鉄8回戦の計3試合を行った。注目の巨人対阪神は藤田、小山両エースの先発で開始されたが、両軍の打棒大いに振るい五ホーマーが乱れ飛ぶシーソー・ゲームの末、小山を救援した村山に、最終回長嶋が劇的なサヨナラ13号を浴びせ巨人が栄えの試合をつかんだ。中日、大洋はそれぞれ国鉄、広島に快勝した。
★藤本、王の“応酬”★
「ちょっと休みすぎかもしれない」その不安を自分自身で試すように小山は立ち上がりから徹底したスローボール投法に出た。持ち前の快速球をセーブしてカーブ、あるいはシュートで慎重に両サイドを狙った。1回与那嶺、2回には長嶋といずれも第1打者に安打されたが、バックの好守にも助けられ、巨人の攻撃をかわしていった。この小山のピッチングとは対照的に藤田はいつもと変わらぬピッチングを続けた。1、2回3者をきれいに凡退。小山の柔を圧倒するマウンドさばきであった。
しかし藤田が3回に思わぬところでつまずいた。無死並木を歩かせ、山本の一打は広岡の好守に助けられたがこの1死二塁に小山を0-2と追い込んだあとの遊び球を二塁左にタイムリーされた。“みずからたたき出した先取点”に元気付いた小山が後半どう投げきるか、興味はここに集中した。しかし小山のピッチングは依然さえず、5回長嶋、坂崎に連続ホーマーの洗礼を浴び、あっけなく逆転される苦境に立った。当たりを取り戻した長嶋に対しては0-1後の低めシュート、坂崎には2-1後からの高めのカーブ。小山に球速なしとみた長嶋、坂崎の鮮やかな強力パンチであった。
★両“エース”の対決★
しかし波乱はこの連続ホーマーだけではなかった。藤田の速球を狙う阪神は6回三宅の適時打で同点に追い上げたあと、さらに藤本が鮮やかなアーチ・ラインを左翼席に12号して形勢を三転するたくましさをみせた。しかも長打の応酬はさらに続いた。2点リードを許した7回、巨人は1死後坂崎の右前安打に続いて王が右翼席へ高々と同点ホーマーを打ち込んだ。あまりにもはっきり示す小山の限界であった。もちろんここで村山が登板した。しかし完全に1歩遅れた村山のリリーフであった。
★まさに劇的幕切れ★
ゲームはスリル満点の興味を盛り上げ振り出しに戻った。しかも阪神は8回絶好のチャンスを迎えた。無死三宅、藤本がともに3-2から歩き、大津のバントで二、三進した。のどから手が出るように欲しい1点である。しかし阪神はこのチャンスに藤本が藤田-広岡のけん制網に引っかかって二塁に憤死。横山も遊直に倒れて藤田KOの好機を逸した。この好機が阪神を敗戦に追いやったといってよい。村山は相変わらずダイナミックなピッチングで8回を3者凡退に打ち取った。しかし長嶋の力は土壇場の最終回サヨナラ・ホーマーという劇的な幕切れで村山の右腕をとらえた。2-2後村山が力いっぱい投げ込んだ内角高めのストレート。バットを一握り短くしてジャスト・ミートを狙った長嶋の一打が痛烈なライナーとなって左翼スタンドに突き刺さった。村山の完全な負けであった。両陛下はこの劇的なホーマーを興味深く見られながら席を立たれた。
◎生涯忘れない 感激の顔にしたたる汗◎
打った瞬間長嶋は仁王立ちで行方を見つめた。打球は伸びる。そして左翼のスタンドに吸い込まれた。最終回おあつらえ向きのサヨナラホーマーだ。コーチス・ボックスの水原監督が跳び上がる。両手をグルグル回す。マウンド上の村山はうなだれて頭を上げることが出来ない。ダイヤモンドを1周する長嶋の脚がはずんでいる。
ナインの握手に迎えられた長嶋に報道陣の波状攻撃。テレビ、ラジオ、新聞。同じような質問が何度も繰り返される。「5回に小山さんのシュートを打ったので自信がつきました。当たっていないときはあれが打てない。あのときは腰をためて巻き込んで打ちました」。その頭には汗がしたたり落ちている。
インタビューの途中両陛下がお帰りになる。それを見送る長嶋は本当にうれしそうだ。中断したインタビューがまた始まる。「最後のときはトップ打者だし何とか塁に出ようと思いました。打った球ですか? 夢中でよくわからないんですよ。とにかくシュートでした。いいコースへ来ました」。同じことを何度も繰り返しながら夢中でしゃべっているようだ。「村山君は球が速いから少しバットを短く持ったのもよかったようです」と満足そうにうなずく。長嶋はゆうべ10時半に床についたのに「あしたは陛下がおいでになる、何とか打ちたい」と考えていると全然眠れず、寝ついたのは1時をすぎていたという。「この感激は一生忘れないでしょう」と結んだ。