
「長嶋番」を務めたのは、12年ぶりに巨人監督に復帰した92年11月初旬からだった。球界、ファンとも待ち焦がれた超大物の復帰とあって、その一挙一動、一言一句を巡り激しい取材合戦を強いられた。一方で取材時間は制限され、単独取材ができないもどかしさにさいなまれていた。
宮崎での春季キャンプ。メイン球場から少し離れた芝生の広場で「日課」のランニングを行う長嶋さんを、先回りして待っていた。ふと、目が合った。「一緒にどうだ?」という具合に手招きされた。驚きと、うれしさと、興奮と…。たとえ世間話でも、並走しながら、「差し」で話す機会に恵まれ、小躍りした。
ところが…。1週間ほどたってチーム関係者から「監督と走るのは控えて」と注意された。他社からすれば「1人だけ“特別扱い”はずるい!」と。
それでも、並走した期間に幾つか見つけたランニングコースを1人走っていると、時に監督のジョグに遭遇。すると「おっ、玉置さん。長嶋茂雄がここに来ると読んでましたね! エッヘッヘッ」と、ミスタースマイルとともに、しばしの“単独取材”の機会もくれた。そのうち、H紙のS記者、Y紙のM記者らも一緒に走るようになり、長嶋さんを中心にした「宮崎走ろう会」も結成? された。
常に球界の「主役」であると同時に「演出家」でもあった。野球人口の減少を憂え、プロ野球の人気興隆に心を砕いた。94年、中日との10・8最終決戦を「国民的行事」と銘打って盛り上げたのもその一例だろう。
長嶋さんが面白い試合を「演出」すればファンは喜ぶ。巨人の優勝は他チームの利得にこそならないが、それはチーム力が低下したわけではなく打倒巨人の契機につながるチャンスであり、長嶋人気による観客動員増の妙味を味わえる。スポーツ全体の商品価値が高まり、野球熱の勃興に資する…。長嶋さんは、球界のそんな「非ゼロ和ゲーム」に腐心した。役割は既に「長嶋コミッショナー」ではなかっただろうか。【92~94年巨人キャップ・玉置肇】