
「見えない手錠」をつけたままの無念の死――。1963年に埼玉県狭山市内で女子高生が殺害された「狭山事件」で、「部落差別が生んだ冤罪(えんざい)」を訴え、裁判のやり直し(再審)を求めていた石川一雄さん(86)=無期懲役が確定し94年に仮釈放=が11日夜、同市内の病院で力尽きた。間もなく20年目に入る第3次再審請求審が動き出すことを期待しながらの最期だった。61年前のこの日は、第1審で死刑判決が下った運命の日だった。
石川さんは昨年末、妻早智子さんの実家がある徳島県を訪れた際、肺炎にかかり病院に緊急搬送された。40度の高熱で一時は危ぶまれたが「帰りたい」と繰り返し、狭山に戻ってきた。早智子さんの懸命な看護で健康を取り戻したが、5月に東京で開催予定の支援者集会に「自分の足で歩いて参加したい」と、転倒した際に骨折した足の治療を受けることに。3月7日に狭山市内の病院に入院、14日に手術する予定だった。ところが、11日夕に容体が急変、早智子さんらが見守る中、息を引き取ったという。
支援団体の部落解放同盟埼玉県連の小野寺一規書記長によると、96年の結婚以来、30年近くにわたって支えてきた早智子さんは、夫の突然の死に強い衝撃を受けた様子だったが、「再審裁判は私が引き継ぎます」と気丈に語ったという。
実は、石川さんは数枚つづりの便箋に「遺書」をしたためていた。そこには、再審裁判を早智子さんに引き継いでほしいという願いと、自分の遺体は石川さんの旧宅跡地に建つ支援事務所に置き、再審運動を支えてくれた人たちと最後の別れがしたいと、つづられていた。その願いに応えたいと、13日から2日間、遺体は事務所に安置される予定だ。
「最近書かれた感じです。体調を崩して思うところがあったのかもしれません」と、小野寺さん。異変を感じていたとも。「『最低100歳まで生きて、再審無罪を勝ち取る』と言っていたのが、昨年ごろから『死んでも死にきれない』と言うようになっていました」。公の席に姿を見せたのは、昨年11月1日に東京・日比谷野外音楽堂で開かれた支援者集会が最後になった。
45年にわたって石川さんを支援してきた小野寺さんは「本当に悔しいし、無念です」。第3次再審請求審は、春に予定されている三者協議で、弁護側が求めている証人尋問に関して、裁判所が何らかの判断を示すと期待を寄せていた。「せめて再審開始の声を聞かせてあげたかった」
石川さんは仮釈放後も両親の墓参りはしなかった。「まだ『見えない手錠』がかかったままです。無罪の判決を聞いて初めて外れる。それまで両親の墓にいくわけにはいかない」と話していたが、その日はついぞ訪れなかった。
第3次再審請求審の裁判長は現在10人目。何ら判断を示さないまま時間だけが過ぎ去り、申立人の死亡で区切りを迎えることになる。石川さんの支援を続けてきた評論家の佐高信さんは「ちょっと言葉にならない。なぜ、裁判所は動かなかったのか。憤りの気持ちでいっぱいだ」と非難の声を上げた。【隈元浩彦】