41年前に石川県立輪島高校(輪高)に留学し、剣道を覚えた米国在住の女性ダンス教師、ヴィッキー・ウオーカー・カーニャさん(58)が、青春時代を過ごした輪島市の被害に胸を痛めている。輪高での体験を生かし、米国の子どもたちに剣道も教えてきた。思い出が詰まった「日本の古里」に伝えたいメッセージがある。「私は復興を信じている」と。
元日に飛び込んできたニュースに、ヴィッキーさんは激しく動揺したという。倒れたビル、ひび割れた道路、燃え上がる朝市周辺の街並み。何日も涙が止まらなくなった。
3月末、毎日新聞に寄せたメッセージには「輪島と石川の皆様に愛を込めて」と記し、数々の思い出を挙げて「私の思いと祈りはあなたと共にある」と胸の内をつづった。
「輪島弁」が誇りに
ヴィッキーさんは、オーストラリア出身。1983年2月から1年間、ロータリークラブの仲介で交換留学生として輪高で学んだ。
ホストファミリーらと奥能登各地を訪ねた記憶は、多くの写真と共に残っている。住吉神社への初詣や曳山(ひきやま)巡行、ひな祭り、総持寺祖院への参拝。婚礼衣装を着せてもらったこともあった。
同級生と浴衣姿で参加した「ボンオドリ」(同市無形民俗文化財「三夜踊り」)も忘れられない思い出だ。
巨大な灯籠(とうろう)が並ぶ「輪島キリコ会館」(2015年の移転前の旧館)には何度も通った。輪島塗の芸術性の高さにも驚いた。来日前、ほとんど日本語は話せなかったが、輪高の英語教諭らが根気強く教えてくれたという。
お気に入りだった場所が、ホスト宅から近かった朝市だ。散策を重ね、「こ(買)うてくだぁ」という、おばちゃんたちの掛け声が耳にこびりついた。帰国後、10代のうちにオーストラリア・シドニーの日系企業に勤めたが、上司からは、「君が話しているのは『輪島弁』だ」と面白がられた。実際に話されているネーティブな言語を身に付けたことを、誇りに思った。
輪高で剣道部に飛び込んだのは、日本の伝統的スポーツを体験したかったからだ。「正座」「面、胴、小手」。次々と剣道用語を覚えた。20代で再来日し、法政大で学んだ時も剣道部に所属した。
メッセージ、何度も推敲
結婚を機に米国に渡り、テキサス州マッキニー市で暮らすヴィッキーさん。ダンス教室のかたわら、第2言語として英語を学ぶ高校生の授業も受け持つ。子どもたち対象の剣道教室も開いた。
定員20人の教室はすぐにいっぱいになった。生徒には、輪高で学んだ「剣士の心」を求める。対戦相手を敬うあいさつ「オタガイニレイ!(お互いに礼)」は忘れていない。
何度も推敲(すいこう)した今回のメッセージで、41年前について「私の人生を変えた年。素晴らしい経験を決して忘れません」と振り返った。
地震と火災の被害について「どんなにつらい体験だったのでしょう」と思いやり、何かサポートできるなら、飛んでいきたいとも記した。次女レイチェルさん(20)は4年間、日本語を学んでいる。いつか一緒に輪島を訪れるつもりだ。
「日本が恋しい」というヴィッキーさん。被災者に向けて、こうつづっている。
「私は輪島の未来を信じています。なぜなら『輪島の人々は強く、復興に向けて互いに助け合える』ことを知っているからです。輪島は再建され、再び訪れるべき美しい場所になるでしょう」
「いつか復興した輪島に」
ヴィッキーさんの剣道部同期の会社員、柴田ゆかりさん(57)は輪島市街地の自宅が損壊し、水運びなどで腰や腕を痛めて約2カ月、石川県加賀市で避難生活を送った。
ヴィッキーさんについて「好奇心旺盛でとにかく真面目。けいこにも熱心で、部全体の士気を高めてくれた。輪島弁を口にして笑いが起きたことも多かった」と振り返る。
届いたメッセージを読み、「剣道を続けてくれたこと、輪島弁を覚えていてくれたことに感謝したい。復興を信じているとの言葉に気力をもらった。いつか復興した輪島に迎えたい」と喜んだ。【竹中拓実】