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五百旗頭氏が語った岸田首相の姿 「甘かった」能登半島地震への対応


 元防衛大学校長で東日本大震災の国の復興構想会議で議長を務めた五百旗頭真(いおきべ・まこと)ひょうご震災記念21世紀研究機構理事長は、亡くなる2週間前の2月21日に毎日新聞のインタビューに応じ、大災害時の政治トップの対応のあり方について語った。【聞き手・安藤いく子、島袋太輔】

 (1月1日に)能登半島地震が起こり、岸田文雄首相は13日後に初めて現地に視察に入った。その視察から帰ってきたら、まず声を上げないといけなかった。「大変だぞ、普通じゃないぞ、そして、これをやらないといけないぞ」と、五つくらい柱を挙げて、それを見ながらやっていかないといけなかった。現地を見てきた人には誰も逆らえない。それなのに、岸田首相にそういうところがないのがじれったい。言葉がない。ワードポリティクス(言力政治)がない。

 (1995年1月17日午前5時46分に)阪神大震災が起きた時、村山富市首相(当時)は午前中、ルーティンの仕事をしていた。予定されていた会合などに出た後、テレビに映る阪神高速道路が崩落している様子を、みんなが見ているのに気づいた。そして、五十嵐広三官房長官(当時)から死者数の報告を聞いて、びっくりした。10人ほどだと思っていたら、200人くらい。それから態度が変わった。

 しかし、午前中の失態が大きすぎて、「あの人は理解のない人だ」とみられた。ただ、石原信雄官房副長官(当時)がしっかり者で、村山首相を3日目に現地に行かせた。現地から帰ってきた村山首相はいくつか指示を出した。現地に行ってきた人の言うことには、誰も反対できない。そこからは軌道に乗り、復興は割と早く進んだ。

 岸田首相も割と早い段階に現地に行ったのだから、「俺が見てきた」と言って、いくつか柱を打ち出せば良かったのに、甘かった。今からでも遅くないので、軸になる復興政策をしっかりと示さないといけない。

 熊本地震では、熊本城を元に戻すんだという強い意志があったから、人が集まってきた。能登半島地震でも地域の伝統文化である輪島塗の復活といった代表的な産業を国がピンポイントで支援することで、全国から復興に関わる人を集められるのではないだろうか。

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