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5歳で生き別れた兄 29年ぶり再会 阪神大震災で死亡した母の墓へ


 あの日から29年を迎えた17日、阪神大震災から復興を遂げた被災地で当時の記憶が引き継がれた。「風化させてはならない」。能登半島地震で災害への備えの大切さを改めてかみしめた体験者から、次の世代を担う若者へバトンが託された。

 止まっていた時間が動き出した。神戸市中央区の東遊園地で開かれた追悼行事「1・17のつどい」に、遺族代表として臨んだ鈴木佑一さん(34)=神戸市須磨区=はこの冬、生き別れとなった八つ上の兄と再会した。「多くの支えで今があることに感謝したい」。読み上げた追悼のことばに、そんな思いを寄せた。

 17日午前5時46分。母の形見であるチェック柄の赤いマフラーを身に着け、祈りをささげた。ことばを語る最中、孤独だった過去が頭をよぎり、涙が止まらなかった。

 5歳の時、母富代さん(当時44歳)が震災で倒壊した母子生活支援施設「神戸母子寮」(同市兵庫区)の下敷きになり、亡くなった。別居していた父は兄だけを引き取り、自分は児童養護施設で育った。18歳の頃、父の訃報が届いたが、兄は音信不通のまま。「1人の力で生きていくしかない」と腹をくくった。

 大学院を経て英国留学で経営学を学び、帰国後に玩具の輸入販売会社を起業した。大学の恩師や友人の支えで実現できたことに気付き、「もう1人ではない」と心に充満していた孤独感は薄まっていった。

 家族と向き合わせてくれたのは、母子寮の職員だった女性だ。19歳の頃、母が生前、鈴木さんを膝の上に乗せて「私にはこの子がいる」と口にしていたことを聞かされた。母の愛情を初めて知った。

 兄の消息を知らせてくれたのもこの元職員だった。仕事が軌道に乗り始めた2019年のことだ。元職員との電話口で、兄は「弟に会う資格がない」と泣いていたという。「兄も苦しんできた。もう気にしていないと伝えたい」と居場所を探すことを決意した。

 知人らを頼り、23年11月末に兄と対面した。弟を1人残した自分を責め続ける兄に、弟思いの優しさを感じ、ずっと伝えたかった言葉をかけた。「これからの人生は幸せに生きてほしい」。空白の時間が埋まり始めた瞬間だった。

 17日午前、母子寮の跡地や母が眠る墓を兄と元職員の3人で訪ねた。「ずっと1月が来るのが怖かったが、その思いがなくなった」。そう語る兄の晴れやかな表情に、胸がいっぱいになった。

 母はきっと喜んでくれただろう。29年ぶりに家族との時間を過ごし、「また一緒に会いに来るね」と墓前で誓った。もう一つの形見は動かなくなった腕時計。その針が優しく刻み始めた気がする。【澤俊太郎】

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