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旧渋沢邸・中の家 再建の大工判明 「腕利き」の義父から技学ぶ


 埼玉県深谷市出身の実業家で社会事業家の渋沢栄一(1840~1931年)が肖像の新1万円札が発行される7月以降、生地である旧渋沢邸「中の家(なかんち)」(同市血洗島)は更に多くの来場者でにぎわいそうだ。1895(明治28)年に栄一の妹夫婦が再建した現在の中の家の建築を地元の大工、安沢与作が担ったことが、深谷市文化財保護審議会委員の荻野勝正さんらの調査で判明した。【中山信】

 渋沢栄一は幕末に高崎城乗っ取りなどの過激な倒幕計画を立てたが中止に追い込まれて血洗島を出奔。明治2年の新政府出仕後は東京で暮らし、新しい家を構え、深谷の中の家は栄一の妹夫婦が継いだ。中の家は1892年に火災で焼失し、95年に再建された。耐震補強などを施して2023年8月にリニューアルオープンした後は、栄一が晩年に帰郷した際に寝泊まりするため増築された上座敷などの内部も見学でき、栄一のアンドロイドが映像に合わせて故郷の思い出などを語る展示施設も整備された。

 中の家再建を担った安沢与作の名前は、血洗島にある安沢明さんの家の墓地の一角にある「安澤翁之碑」に刻まれている。碑文によると、安沢与作は越後国(現在の新潟県)刈羽村に生まれ、13歳から血洗島の大工の棟梁(とうりょう)・安沢平七に技を学び、平七の長女の婿となった。明治28年に渋沢市郎家(再建された中の家)など近隣の家を建て、その後も当時の八基小学校、八基村役場などを建設した。

 荻野さんは同市大寄公民館で23年11月に開かれた歴史探訪講座で講演し、血洗島の名主で「大渋沢」と呼ばれた「東の家(ひがしんち)」の渋沢宗助(栄一の伯父)が主屋を改築した際、腕が良い与作の義父、平七を越後から呼び寄せて建築を担わせたことなどを紹介した。

 栄一の父、市郎右衛門の兄である宗助も中の家と同様、染料となる藍玉の製造販売などで財を成した。わざわざ新潟県から腕の良い職人を呼び寄せた理由を、荻野さんは「自分の敷地の一部を提供して、そこに住まわせ、未来永劫(えいごう)、この地域で活躍してもらおうという発想ではなかったか」と指摘した。

 宗助は藍玉と並ぶ家業の柱として、養蚕の技術を学んで「養蚕手引抄」も著し、進歩した技術を広めた。渋沢栄一のいとこで学問の師であった尾高惇忠は当時20代で宗助の仕事を手伝い、1872(明治5)年に設立されて日本経済の屋台骨を担った官営富岡製糸場(群馬県富岡市)の初代場長を務めた。明治後半期以降は藍玉の製造販売が急速に衰退したため、中の家などは養蚕に力を入れ、改修された中の家にも2階瓦屋根の上に櫓(やぐら)屋根を設けて風通しを良くした総櫓の構造が残る。

 近隣の群馬県島村(現在の伊勢崎市)の田島弥平は近代養蚕法「清涼育」を開発し、清涼育に適した蚕室兼住居の工夫を行った。田島弥平旧宅は富岡製糸場などとともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されている。平七らは島村でも、渋沢栄一の推薦を受けて明治4年に復興された「宮中ご養蚕」の初代世話役を務めた田島武平ら養蚕農家の新改築を担った。

 荻野さんは「蚕の一大変革をした渋沢宗助には、腕の良い職人をスカウトして来てまで良い建物を造り、良い蚕、良い蚕の卵をつくるという発想があった。外貨獲得を蚕に頼った明治日本の夜明けは宗助さんの発想から生まれたと言っても過言ではないと思う」と語った。

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