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創価学会・池田大作氏死去 巨大な「生みの親」失った公明党の今後は


 創価学会の池田大作名誉会長が亡くなった。池田氏がつくった政党として半世紀以上の歩みを重ねてきた公明党。1999年以降は一時期を除いて自民党と連立政権を組み、与党の地位を固めている。一方でそのことは公明党が長年掲げてきた「大衆の党」「平和の党」の看板と現実の政策との矛盾をたびたび生じさせた。それでも支持者の求心力を維持できたのは池田氏の存在があったからであり、羅針盤を失った公明党の今後は見通せない。

 公明党の前身「公明政治連盟」が結成されたのが61年。結党は3年後の64年。当初は「国立戒壇の建立」など宗教的な主張をしていたが、69年の「言論・出版妨害事件」を経て池田氏は政教分離を宣言した。創価学会と公明党の組織を切り離す形をとったものの、学会は公明党の支持母体として政策・人事に強い影響力を及ぼしてきた。

 政治路線としては、自民党が保守、社会党が革新を代表した55年体制のもと、公明党は民社党とともに中道政党に位置づけられ、社会党と連携する社公民路線をとった。一方で、池田氏は自民党の池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫氏ら歴代首相経験者と親交を深めた。言論・出版妨害事件の際は、田中角栄元首相(当時は自民党幹事長)が事態の収拾に動いたことが知られている。

 創価学会が本部を置く東京都ではいち早く、鈴木俊一都政の始まった79年に与党入りした。国政では、92年の国連平和維持活動(PKO)協力法の制定で自民、民社両党と連携する自公民路線を鮮明にした。

 93年の細川護熙政権で新生、社会、民社党などとの非自民連立を選択したが、1年弱で崩壊し、自民、社会、さきがけの自社さ連立政権が誕生した。下野した公明党はいったん解党して新進党の結党に参加したが、このころ、自民党が創価学会の選挙活動などを批判し、国会で池田氏の証人喚問を要求。95年には学会の秋谷栄之助会長が国会での参考人招致に応じた。こうした自民党の攻撃で学会に動揺が広がり、後の自公連立につながっていく。

 97年の新進党解党後、公明党が再結成され、99年には自民党との連立に踏み切った。自公連立では創価学会の「集票力」を背景に、公明党候補のいない選挙区では学会が自民党候補を支援し、自民党候補が支持者に「比例は公明に」と呼びかけるバーター協力が定着。「学会頼み」の選挙を重ねた自民党内から池田氏批判は聞かれなくなった。

 「池田氏を守るための理念なき連立」などと批判された自公連立で、公明党はたびたび、「平和の党」としての立場が揺るがされる事態に直面した。小泉純一郎政権では自衛隊のイラク派遣を決定。安倍晋三政権は集団的自衛権の行使を容認した安全保障関連法の制定などを推し進めた。集団的自衛権の行使を認めることには公明党の支持者に反対が根強くあったが、自公間で協議を重ね、限定的な行使にとどめるよう要件を設けることで折り合った。

 安倍政権ではさらに、自民党が自衛隊の存在を明記する憲法9条改正案をまとめ、公明党の対応が注目された。2022年に安倍氏が死去したこともあり、国会の憲法審査会で9条改正は最優先のテーマにはなっていないが、自民党が旗を降ろしたわけではない。

 時に譲歩を強いられてまで自民党との連立を続けてきた意義は「政治の安定」だと公明党は強調する。ただ、岸田文雄政権では、政策や選挙協力を巡って両党がぎくしゃくする場面も目立つ。「人間主義」などの結党理念が連立にどう生かされ、今後どう具体化されていくのか。巨大な「生みの親」を失ったこれからこそ、真価が問われることになる。

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