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日出城の人骨「人柱の可能性高まる」 平井義人町資料館長が講演


 難工事の成功などを祈願するため、人を生きたまま埋めたとされる「人柱」。国内各地に伝説が残るが、実際に行われていたかどうかは専門家によって見解が異なる。大分県内で人柱と推定された1960年の日出城(日出町)下の発掘に関連して、町歴史資料館の平井義人館長が昨年新たな資料を発見、内容を精査して「実際に人柱である可能性が高くなった」と結論づけた。今後議論を呼びそうだ。

 平井館長が新資料を基に自説を披露したのは、町中央公民館での講演会。60年の発掘調査に同行した県立日出高(現日出総合高)の生徒が残した記録から「人が生きたまま埋められた」という状況が色濃くなったという。

 同城では、城下海岸遊歩道の工事中、木棺に収められた老武士らしい人骨などが発見された。大分大などの調査で築城時の人柱と推定され、後に地元有志が現場にほこらを建てたが、遺物は工事ですべて処分された。報告書などはなく、町にも資料が残っていなかったため、これ以上人柱の真偽を探る材料はなかった。

 だが、2022年の同館への寄託史料の中に日出高社会科部が青柳と呼ばれた日出城周辺の史実を記した会誌「青柳史談」があり、発掘された木棺の見取り図など当時の詳細な報告を見つけた。

 それによると、木棺は円筒形の桶(おけ)で、高さ98センチ、直径86センチ。遺体の上からかぶせるように置かれていた。遺体の髪の毛は白髪でチョンマゲの形だったが、空気に触れてバラバラになった。遺体の脇には数センチの翁(おきな)像の陶器があった。桶の周囲は、石室状に大きな石で空間が作られ、石室の上部は1トンを超す大石で蓋(ふた)がされ、その上には錆(さ)びた鉄の部分だけが残る兜(かぶと)が置かれていた。

 同城に人柱の伝説はないものの、平井館長は「この報告文から武士が生きたまま桶をかぶせられ、埋められたことがはっきりした」と話した。仮に武士が死んでから桶に入れて安置したとすれば、桶の上下が逆になるはずだからだ。

 また、平井館長は全国で15の城に残る人柱伝説の実例を比較してみた。人柱にされる対象は城下の美しい娘や旅の僧の例が多いが、理由は志願、指名、クジ引きなどさまざまだ。難工事を人柱の理由にする例は多いが、難工事でなくても伝説が残る城もある。

 伝説があって、実際に人骨も見つかった例は福島県の磐城平城だけだった。1921年の工事中に偶然、人骨や古銭が出土。95歳の老人に舞を命じ、上から一斉に土をかけて人柱にした伝説が残る。

 江戸城伏見櫓(やぐら)では関東大震災の修復工事中の25年、約20体の人骨や古銭が出土。現場に人柱伝説はなく、真偽を巡って歴史や民俗学者らの大論争に発展したが、結論は出ていない。

 平井館長は、各地の人柱伝説を裏付ける公式の文献は存在せず、確認のための発掘例もないため、高校生による記録ではあるが、詳細な状況が分かった日出城の例は「注目に値する」と強調。一方で「老武士を人柱にした目的は新たな謎だ」と語った。

 個人的見解として、神社などへのさい銭を例に挙げ、「(我々が)さい銭の効果が銀行利子のように増えて戻って来るとは思っていないように中世の人も人柱が(城の)物理的な強度につながると信じていた訳ではないだろう」と推測し、公的記録が残されなかった理由について「願かけとしての人柱が当時の当然の習慣で、粛々と実施されたからだとも考えられる」と結んだ。【大島透】

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