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山津波で幼児ら16人生き埋め 悲劇刻む標柱次代に 相模原「地震峠」


 神奈川県相模原市緑区鳥屋(とや)。山あいの地区を県道513号が走る。馬石橋の西側付近では県道が切り通し状になり、起伏もあって「地震峠」と呼ばれている。

「ほんの数秒 生死分かれた」

 1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、南側の山が地滑りを起こし、「山津波」となって9戸をのみ込んだ。辛うじて救出された人もいたが、16人が生き埋めになって亡くなった。このうち8人は行方不明のままだ。一帯は土砂で丘のように盛り上がり、いつしか県道付近が地震峠と呼ばれるようになった。

 県道脇を少し登ると慰霊碑や地蔵尊がある。長い間、遺族らが別々に参拝し、きれいにして守ってきた。慰霊碑は2021年度に国土地理院の「自然災害伝承碑」に登録された。22年の百回忌を前に、遺族と地元住民組織の代表でつくる「鳥屋地域振興協議会」(秋本敏明会長)が「鳥屋地震峠を守る会」を結成した。遺族の高齢化が進む中、次世代に伝承し、教訓を生かす活動を一体となって進めるためだ。同年9月には新たな案内板と標柱(碑)が披露された。会は月命日の1日に慰霊碑周辺の清掃活動を続けている。

 標柱には犠牲者16人の名前だけでなく、享年も記された。守る会の代表、小島信彦さん(70)は「年齢を調べるのが大変で、戸籍を調べてもらった」と振り返る。犠牲者には幼児もおり、16人の生きた証しとして、享年は大切だと考えた。

 小島さんも遺族の1人だ。山津波で曽祖母のイトさん(享年51)と伯父の寛さん(享年5)を亡くした。家全体が潰れ、イトさんと寛さんは玄関で発見されたという。「祖母は2歳の父を抱いて外に逃げられた。ほんの数秒の違いで生死が分かれた」と小島さん。曽祖父は足が埋まっていたところを助けられた。重機などがない当時、周辺の集落から大勢の住民が手弁当で救助に来てくれたという。

 小島さんは毎年春と秋の彼岸に墓参し、必ず地震峠にも寄って花を手向けた。その際、家族から山津波のことを聞かされてきたので「うちはお墓が二つあるような感じだった」と語る。

 語り継がれた悲劇を聞いて育った小島さんは、次世代への伝承を重要と思っている。「多くの人に災害の教訓を知っていただきたいのと、現場に来て、見ていただけたら……」と言う。地震峠には駐車場はなく、近くの馬石自治会館に臨時駐車場が設けられている。【佐藤浩】

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