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「即死」「破片が貫通して腸が…」 日立を襲った368発の艦砲射撃


 雨が降り、雷が鳴る深夜。少女が寝床でうとうとしていると、無数の大きな音が聞こえた。「数え切れないほどの兵隊さんが機関銃でダダダダって空から撃って押し寄せてきた」と思った。「これはただの雷じゃない。皆起きろ」。茨城県勝田町(現ひたちなか市)武田に住んでいた当時7歳の田口元子さん(85)は祖父に言われるがまま、逃げる準備をした。1945年7月17日、日立市や勝田町を襲った、海上の戦艦から砲弾を撃ち込む艦砲射撃だった。

 米艦隊は日立市を砲撃した直後、勝田町の日立製作所水戸工場と日立兵器工場(現工機ホールディングス)を狙い、40センチ砲弾368発を撃ち込んだ。多くが目標を外れて近くの石川、武田、勝倉などの地区に落ちた。勝田町だけで77人が亡くなったとされ、日立兵器工場を狙った流れ弾が落ちた武田では、工場で二十数人、武田地区で9人が死傷したと言われる。

 田口さんが戸を開けると、外には青白い光の混ざった白い霧が流れ、夏なのにヒヤッとした。それからすぐに「ドカン」という音。自宅脇の竹山から「バシン」と砲弾の破片が当たって竹の割れる音も何度も聞こえた。

 砲撃の隙(すき)に庭先の防空壕(ごう)に逃げ込もうとするが、まずは扉を開けないといけない。母が家を飛び出ようとすると、祖母が必死に止めた。「もしものことがあったらなじょする(どうする)。俺が行く」

 祖母が防空壕の重い鉄の扉を開けた。田口さんは恐怖で階段を1段ずつ下りる余裕がなく、身を守るため着せられた綿入り夜着「かいまき」にくるまり、7~9段ある階段を転がり落ちた。妹を抱えた祖父と母も避難した。朝まで眠りにつけず、「助かりますように」と祈りながら、息を潜めて静かになるのを待った。翌朝、近隣住民らが「もう大丈夫だよ」と伝えてくれるまで外に出なかった。

 防空壕を出ると、家の前のキュウリやナスを育てていた畑には「両手を広げたくらいの大きさ」の穴と破片がいくつもあった。「防空壕に破片が落ちたらひとたまりもなかった」。夕飯はろくに食べていないのに、腹は減らなかった。

 近隣住民の被害は大人同士の会話を聞きかじって知った。「頭をやられて即死」「庭に砲弾が落ちて、その爆風で家がひっくり返った」「お母さんの体に破片が貫通し腸が飛び出した」――。恐ろしくて、ただただ震えた。

 田口さんら多くの住民が疎開。その後戻った武田には今、多くの住宅が並び、田んぼが広がる。「今住んでいる人は高射砲台があった場所にも家を作って平然と暮らしているでしょう。こういう歴史があって、犠牲の上に今の幸せがあるということを感じてほしい」と願う。

防空頭巾で命拾い

 日立兵器工場近くに暮らしていた大谷恒雄さん(88)は、畑に落ちた砲弾の破片を今も保管する。手のひらより少し大きい。「(砲弾が落ちたところには)直径10メートル、深さ5メートルくらいの穴が9個あった」と振り返る。

 10歳だった大谷さんは、両親や兄弟らと座敷で寝ていた。日付が変わる頃、夜中の空は「昼間と同じくらい、アリがいるのがわかるような(明るい)状態になった。照明弾が落ちたんだと思う」。射撃が始まったのはそれからしばらくしてからだと記憶している。

 「ひゅー」という音と熱を帯びた爆風が吹き、16歳の兄は腹の皮がむけ、20歳の姉は肩を負傷した。大谷さんは逃げるのに必死で、2人のその瞬間を見ていない。防空壕に避難したが、首の辺りがヌルヌルし、痛かった。金ボタンほどの破片が首に刺さり、出血していたのだ。

 翌朝、親戚にリヤカーで水戸市の医院に連れられた。医師に「紙1枚分深く入っていたら動脈に入って即死だった。よく助かった」と告げられた。かぶっていた防空頭巾の真綿に守られた。

 道中、兄と姉が自宅の庭で寝かされているのを見て、亡くなったと分かった。地区では多くの人が疎開し、「手伝ってくれる人はいないから、(両親や親戚の)3人くらいで(2人を)埋めたんだと思う」。

 今年も7月17日に生花を買い、兄姉の墓参りをした。「今は艦砲の日に墓参りをする人はあまりいなくなった」とつぶやく。「もう戦争が世界から無くなって、平和になってもらいたい。なんで無くならないんだろう」。世の中が戦禍のむごさを忘れているのではないかという嘆きと憤りがにじんでいた。

取材後記

 田口元子さんは艦砲射撃について一通り話し終えた後、「学校の生活をお話ししてもいい?」と切り出した。空襲警報が鳴る度に避難をして勉強ができなかったことや、下校中に米軍のB29爆撃機の音が聞こえると、友人と一緒に芋畑に入り、腹ばいになってじっと飛行機が去るのを待ったことなどを教えてくれた。懸命に話す姿に、戦争を知らない世代が増えていくことへの危機感を見た。

 一方で、「もう過ぎたことだから」と話したがらない人もいて、戦後78年という時がたっても癒えることのない心の傷や悲しみの深さを感じた。戦争体験者は高齢化し、直接話を聞ける機会は少なくなっていく。聞いた話を記録として記事に残すことの重要性や、読者の記憶に残る記事を書く責務を感じた。【長屋美乃里】

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