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「3度死んだ」被爆2世、「核兵器は絶対悪、廃絶は今すぐ」


若い世代に関心を 「語り部」活動に力

 広島、長崎に米軍が原爆を投下して今年で78年。県内在住の被爆者らで作る県原爆被害者協議会(しらさぎ会)は核兵器のない世界を目指し、被爆体験を語り継いできた。被爆2世で、今年、2度目の事務局長に就任した吉川幸次さん(72)は被爆の記憶を受け継いでいく重要性を訴える。【萩原佳孝】

 ――被爆を語れる人が減っています。

 ◆しらさぎ会は3月現在、被爆2世、3世も含め会員350人(ほか賛助会員103人・団体)。被爆者援護や相互交流、核廃絶運動などさまざまな取り組みを続けていますが、大きな柱が「語り部」活動です。年間50~60件ほど、依頼を受けて派遣しています。

 ただ、被爆者健康手帳を所持する被爆者の平均年齢は85歳を超え、体験を直接語れる人は減り続けています。私のような被爆2世はもちろん、幼いころに被爆した人も記憶がなかったり、乏しかったりします。

 だからこそ、体験をどう受け継ぎ、語り継いでいくかが求められています。広島で2歳の時に被爆した女性は母や親族から聞いた話を、差別を恐れ苦悩した自身の経験と合わせて語り継いでいます。胎内被爆2世の40代の男性は祖母の体験に寄り添い、語り継ぐ活動に取り組んでいます。

 ――ご両親のどちらが被爆を?

 ◆母が「救護被爆者」です。日本赤十字社の看護婦養成所出身で、戦時召集され、軍属として佐賀の嬉野海軍病院に配属されました。長崎に原爆が投下された1945年8月9日の翌日から被爆者がトラックで次々に運び込まれてきました。長崎の大村海軍病院と行ったり来たりして、海軍除隊の12月30日までの約4カ月間、被爆者の看護を続けました。

 母は若い頃からがんを患い、入退院を繰り返しましたが、それでも厚生省技官として定年まで仕事を続け、反戦活動や語り部活動をやっていました。「私の記憶を活字にしてほしい」と強く言われ、準備していた2010年、七つ目のがんのため87歳で亡くなりました。早く聞いておけば、と悔いが残ります。

 海軍にいた父方の伯父も長崎の「入市被爆者」でした。吐血を繰り返し、強い倦怠(けんたい)感を訴えて一生、働けないままでした。

 ――被爆者運動に関わるようになったのは?

 ◆私は1950年、佐賀生まれです。幼い頃は病弱で、母や2歳上の姉から「3度死んだ」と言われました。中学校までは貧血で何度も倒れ、原爆の影響を疑うようになりました。

 そうした背景もあり、新聞部だった高校生のころから反戦平和運動に関わり始めましたが、それは「加害の歴史」として戦争を考えるものでした。母の死後、アルバムや日記などからその記憶を探し始めました。定年退職後、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)で被爆者アンケートの記述部分の入力を手伝い、数千人もの被爆の記憶を追体験することになりました。こうしたことがしらさぎ会に入るきっかけになりました。

 ――広島で5月にG7サミットがありました。

 ◆被爆者を落胆させるものでした。核軍縮に関する声明「広島ビジョン」は核抑止政策を正当化し、被爆者や核禁止条約に言及しませんでした。「核兵器は絶対悪、廃絶は今すぐ」が被爆者の声。広島で開催した意味がまったくないように思います。

 ――今後の活動について。

 ◆被爆者が亡くなり、高齢化もあって全国的に被爆者運動は厳しい状況ですが、埼玉は先人らのリーダーシップもあり、多くの団体に支えられ連帯しながら活動を続けています。

 記憶というものは、問題意識を持ち、学ぶことで受け継いでいくことができます。戦争や原爆を知らない若い世代に一人でも多く関心を持ってほしい。そのために被爆を語り継ぐ取り組みを続けていきます。

吉川幸次(よしかわ・こうじ)さん

 佐賀県神埼市生まれ。大学進学で上京、卒業後大学生協に勤務。2018年にしらさぎ会に入り、21年6月~22年5月に事務局長。23年6月から再度務めている。しらさぎ会事務所は蕨市中央1の27の9。電話048・431・6521(月、水、金の午前10時~午後4時)。

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