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島の形変えた関東大震災 9メートルの津波から住民を守った石塔


 千葉県館山市の海には関東大震災で9メートル超の津波が襲来したとされる。しかし、犠牲者は少なかった。住民を守ったとされるのは同市相浜地区の「蓮寿院」にある一つの石塔だった。

 1923年9月1日正午前。推定震度7の激しい揺れが千葉県館山市を襲った。数分後、同地区に近い海では海水が沖へ一気にひいた。海水がなくなった海岸線から沖合だったところには、魚などがいくつも落ちていた。それらを「拾い放題だ」と若者たちが集まったという。そんな時だ。周囲から怒声が飛んだ。「何をやってるんだ。逃げないと駄目だ」――。

 蓮寿院の町田達彦住職(72)が40年以上前、地区に住む複数のお年寄りから聞いた関東大震災発生時のエピソードだ。「家屋が流されていくのを高台から『さようなら』と言って見送った」。こんな話も耳にしたという。

 県や館山市立博物館によると、同震災による県内の死者・行方不明者は1346人。大半が住宅の全壊などに巻き込まれた犠牲者だ。特に房総半島南部の館山市や南房総市などの安房地域では、1206人が死亡・行方不明と大きな被害が出た。中でも館山市は死者が県全体の54%を占めた。

 同地区には9・3メートルの津波が襲来。津波による建物の流失はあったが、「犠牲となったのは逃げ遅れた高齢者1人のみだった」との記録が残る。被害状況をまとめた安房震災誌には「海嘯(かいしょう)襲来の前兆と思い、海浜に近い住民は先を争って老幼を高所に避難せしめ、壮者は各々家財搬出に努めた」と記されている。当時、住民らは既に津波への危機意識を抱いていたことが読み解ける。なぜか。それを解き明かすヒントが蓮寿院内に残されている。

 「津波により老若男女86人が死亡した」。こう刻まれているのは「元禄大地震津波の犠牲者供養」の石塔。町田住職によると、この石碑は江戸時代の1703年に発生した元禄地震の12年後に建立されたものだという。同地震では大きな津波が襲来し、県内では2000人以上が犠牲となった。この石塔に記された記録は同地区での被害で、町田住職は「元禄地震の教訓が代々引き継がれ、関東大震災での避難行動につながったのだろうと昔のお年寄りは話していた」と明かす。

 同市では、同震災によって海の景色も一変した。今は館山湾で陸続きになっている高ノ島と沖ノ島は元々、沖合に浮かぶ独立した島だった。同震災前の館山湾の様子が分かるはがきにも海に浮かんだ両島が写っている。

 同震災後、激しい地殻変動で沿岸部一帯が隆起。安房震災誌には高ノ島について「干潮時には陸から島へ徒歩で渡ることの出来るやうになつた」と記され、館山沿岸部は約6尺(約1・8メートル)、高ノ島は約7尺(約2・1メートル)、沖ノ島が約8尺(約2・4メートル)隆起したとされる。同館によると、国土地理院の調査でも、主要国道沿いに設置されている1等水準点が館山市内で約1・7メートル隆起していることが確認されている。

 その後、高ノ島は旧日本海軍が埋め立てて、1930年に航空基地を建設。埋め立てにより沿岸流が変化し、高ノ島と沖ノ島の間には砂が積もって陸続きとなった。同館の担当者は「地震は海の風景を変えた。昔起きたことを知り、防災意識につなげてほしい」と話している。【山本佳孝】

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