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「お母さん助けて」「先生どこ行ったの」 夜の海に消えた子どもたち


 「お父さん助けて、お母さん助けて」。太平洋戦争末期の1944年8月、大勢の幼い子どもたちが乗り込み、有事が迫る沖縄から九州に向かっていた疎開船「対馬丸」が米軍の魚雷攻撃で沈んだ。いかだに乗って海を6日間漂流し、助かった沖縄県大宜味(おおぎみ)村の平良啓子さん(88)の耳には助けを求める子どもたちの声が残る。1400人あまりの命が海に消えた。悲劇は、海で隔てられた島からの避難の難しさを物語る。

 沖縄県と鹿児島県・奄美諸島の住民を県外に避難(疎開)させる――。政府がそう閣議決定したのは44年7月7日だった。日本が防衛ラインと定めた「絶対国防圏」内にあった西太平洋のサイパン島が米軍の手に落ち、沖縄への米軍進攻が現実味を帯びていた。

 県民約60万人のうち高齢者や女性、子どもら約10万人を日本本土と台湾に避難させる計画。44年7月下旬以降、沖縄から避難民を乗せた船が本土へと出発した。だが、そのルートは米軍の潜水艦が潜む危険な海だった。

「本土に行けば汽車に乗れる」

 平良さんは当時9歳で、国民学校(今の小学校)の4年生。沖縄本島北部の集落で暮らしていた。集落のまとめ役から本土への避難を命じられ、44年8月21日、那覇港で祖母や姉、兄、いとこらと対馬丸に乗り込んだ。「本土に行けば汽車に乗れるなどと夢見ていた。危険だとは全く考えていなかった」。夕方、対馬丸は約1800人を乗せ、沖縄から長崎へ向かった。

 翌22日の日が暮れた頃、船内の状況は急変した。乗船者は救命胴衣を着けるよう命じられ、甲板に集められた。「今晩は危ない」。日本軍の兵士はそう告げ、静かにすること、食べ物を海に投げないこと、泣く子を連れている人は船底に戻ることなどを求めた。平良さんは疲れから眠りに落ちた。

 午後10時12分ごろ、大きな爆発音が響いた。米潜水艦の魚雷が命中した対馬丸は燃え、わずか10分で鹿児島県悪石(あくせき)島沖の海に沈んだとされる。「助けて」「先生どこ行ったの」。子どもたちの声がこだました。

 海に沈みかけた平良さんは偶然近くに浮いていたたるにつかまった。同い年だったいとこの時子さんも一緒につかまったが、大波にさらわれ、行方が分からなくなった。他の家族の姿は見えず、波間に遺体が浮いていた。「お母さんに会うまでは死にたくない。絶対に生きて帰る」。自らにそう言い聞かせた。

 遠くに人の声が聞こえ、その方向に泳いでいくと、生き残った人たちが必死で竹製のいかだに乗ろうとしていた。平良さんはいかだの下に潜って人の少ない方へ回り込み、飛び乗った。いかだは当てもなく海を漂った。最初は10人が乗っていたが、日を追うごとに一人、また一人と海に消えた。サメが出没し、別のいかだに乗っていた人を襲った。強い日差しで皮膚はただれ、髪が抜ける。海に浮いていた竹筒を拾い、入っていた小豆ご飯を分けあった。

 鹿児島県宇検(うけん)村の島に漂着したのは、撃沈から6日後のことだった。

 そこは無人島で、平良さんは海上の漁師に発見され、奇跡的に助かった。最終的に同じいかだで生き残ったのは4人。那覇市の対馬丸記念館によると、判明しているだけで1484人が亡くなった。乗船者の8割を超える。平良さんの祖母や兄、いとこも含まれる。

有事で安全に避難「できない」

 平良さんはその約半年後、沖縄県国頭(くにがみ)村の自宅に戻った。45年4月、沖縄本島に米軍が上陸。今度は母らと山を越えて別の集落へと避難し、カエルやトンボ、セミなど昆虫を食べ、命をつないだ。「2度、戦争に遭った」。6日間の漂流生活を生き延び、地上戦まで体験した平良さんはそう言う。

 今、米中は対立し、台湾有事の可能性がささやかれる。沖縄県の計画では、武力攻撃が予測される事態になれば、離島の住民は船や飛行機で島外や県外に避難する。しかし、平良さんは自らの体験や現代のミサイルの性能を考えると、「安全に避難することはできない」と思う。平良さんは言う。「戦争という言葉は聞きたくない。住民が避難しなくていいよう、国は外交を進めてほしい」【宗岡敬介】

相次いだ撃沈 潜む米軍艦

 1944年8月に対馬丸が撃沈された鹿児島県のトカラ列島や奄美群島の近海では、それ以前から民間人が乗った定期航路船などが米潜水艦の攻撃を受けていた。43年5月には那覇に向かっていた航路船「嘉義(かぎ)丸」が撃沈され、約300人が亡くなった。

 沖縄県平和祈念資料館の仲程勝哉学芸員(34)は、「43年ごろには沖縄近海は既に危険だった」と指摘する。42年6月のミッドウェー海戦などで日本海軍は艦船を失い、近海への米潜水艦の侵入を阻止できなくなっていったという。仲程さんは「日本海軍は潜水艦を探知する能力も低かった。攻撃こそが華とされ、海上輸送の安全確保などは重視していなかった」と話す。

 沖縄県史によると、沖縄からの「疎開船」は対馬丸事件後も、米軍上陸直前の45年3月まで出た。沖縄本島から出た疎開船は187隻で、日本本土と台湾に約7万3000人が避難した。

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