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「戻りたいと思えない」 ウクライナから再避難、日本で生きる母娘


 ロシアがウクライナに侵攻してから24日で1年になった。神奈川県内には22日時点で144人のウクライナからの避難民が暮らす。戦争が終わる兆しは見えず避難生活は長期化している。言葉や習慣になじめないなどの困難に直面しながらも、日本にとどまる決意を固めたある家族を取材した。

 「ここまで来るのにどれくらいかかりましたか?」

 「15分」

 今月21日、避難民同士の交流拠点「ドゥルーズィ」(横浜市西区)で開かれた日本語教室で、ディアーナ・ヴォロシナさん(16)は少し考えるようなそぶりを見せて、勉強中の日本語で別の避難民の男性からの質問に答えた。

 そのやり取りの様子を母のテチアナさん(38)が笑顔を浮かべて見守っていた。「娘は日本語を勉強して、日本で暮らすことに前向きになっていると思う」

 テチアナさんとディアーナさんは昨年4月に横浜市に逃れてきた。それまで住んでいたウクライナ東部ドニプロでは一日中警報が鳴り響いていた。防空壕(ごう)に避難する毎日で、「心はやすまらなかった」。テチアナさんは大学時代に日本語を専攻し、日本への留学経験があった。夫や両親を現地に残していくことに不安もあったが、安全な環境を優先し、横浜市に住む旧知の日本人の知人に身元保証人になってもらい、ディアーナさんと2人で避難することになった。

 来日後、テチアナさんは横浜市国際交流協会(横浜市西区)で通訳や翻訳の仕事を得た。市の支援で入居した市営住宅は広さも十分で、スーパーも近くにあり、「快適な生活だった」という。

 だがディアーナさんにとって事情は違った。「慣れていない知らない国。友達もおらず、言葉も分からなくて、不安だった」。ディアーナさんから笑顔は次第に消え、「帰りたい」と漏らすようになった。

 テチアナさんは娘の心境をおもんぱかり、10月にウクライナに戻った。しかし帰国後もドニプロの状況は変わっていなかった。今年1月には、集合住宅にミサイルが撃ち込まれ、40人以上が犠牲になった。自宅から約1キロしか離れていない場所だった。その後も警報は鳴りやまず、夜はミサイルの光が空に瞬く日が続いた。

 「ここは普通の生活を送れる場所ではない」。テチアナさんはディアーナさんを連れ、2月上旬に再び横浜市へと避難した。ディアーナさんは「安全な空の下で眠れるのは心地よい」と笑顔で話す。日本に早く慣れるため、日本語の学習にも積極的に取り組んでいる。

 テチアナさんは通訳の仕事を再開するつもりだ。「残してきた両親や家族のことは今も心配で、できるなら一緒にいたい。でも、あの場所は恐ろしく、戻りたいと思えない。日本での生活を頑張っていきたい」【池田直】

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