デイリー新潮が配信する「ラグビーはなぜ英国エリートの必修科目なのか」なるタイトルの記事が目についた。
英国の名門ハーロウ校で実際に教壇に立っていたという松原直美さんというヒトの新著『英国名門校の流儀〜一流の人材をどう育てるか〜』(新潮新書)から抜粋されたもので、日本で言えば開成や灘クラスに該当する名門のパブリック・スクール(私立の中高一貫校)では伝統的にラグビーが一種の必修科目となっているらしく、その背景となっているモットーを解説する内容であった。おおよそを紹介すれば、以下のような感じになる。
「ラグビーはボールを奪う際に相手に飛びかかるなどの危険な行為を伴うため、怪我を防止しプレーを円滑に運ぶよう試合を裁くレフリーの存在が非常に重要だ。レフリーに不服を申し立てると反則を取られ、チームメイトに多大な迷惑をかける。サッカーでもレフリーの判断に激しく抗議すれば反則を取られるが、ラグビーでのその厳しさはサッカーの比ではない。
(中略)たとえ不服を感じても自分を律して感情を抑え、試合の続行に集中する品位が必要とされる。つまりラグビーはルールやレフリーを尊重する精神をチームメイト全員で持たなくては試合が成立しない。
こうした性質からラグビーは肉体と精神を鍛える理想的な手段としてパブリック・スクールの教育に取り入れられてきた」
なんとも品格に溢れた、「神々しさ」すら香り立つ高貴なお題目ではないか。ところが! そんな英国の名門パブリック・スクールの教育方針をすでに40年以上も前から実践していた私立高校が、ここ日本にも実在したのだ。なにを隠そう、大阪北部の小高い丘にぽつりと建つ我が母校である。
我が母校は、今でこそ「進学校」と呼ばれる、そこそこ高偏差値な私立の男女共学高校であると聞くが、私が通っていたころは大半が「すべり止め」として併願受験する、したがって入学式には「第一志望校を落ちて、まだ失意の念を抱えたまま肩を落とす黒い詰め襟姿の男子」が累々と並び、無気力的なオーラがどんよりとただよう、校則だけはやたら厳しい男子校でしかなかった。そして、ブリティッシュ・スタイルの校風を先駆け的に取り入れていたのか、単に校長の個人的な趣味だったのか……その根拠こそ不明であれ、どういうわけか2年生の体育の授業は、一年を通じてラグビーオンリーだった(※現在も同様なのかは定かではない)。
そのおかげで私たちは肉体と精神を理想的なかたちで鍛えられました……なんてことはまったくなく、嬉々として授業に出ていたのはラグビー部とアメフト部と柔道部のカラダのごっつい猛者だけで、それ以外の男子生徒は、とにかく「ラグビーの日」が来るのが憂鬱で憂鬱でたまらなかった……と記憶する。
帰宅部や文化部より、むしろ運動部の連中のほうが嫌がっていたのではないか? シンプルな話、怪我をして自身の部活に影響が及ぶのが怖かった。だから、どの運動部員も鍛え上げられた持ち前の身体能力を活かして、なるべくボールから遠い場所へと全力疾走で逃げ込み、ボールに触れてしまえば一秒でも速く一ミリでも近くを走っているチームメイトにパスすることだけに執心し、スクラムが組まれたらできうるかぎりスムーズに崩す……そういうことばかりを考えながら、ひたすら無難に無難に……「何事もなく時が過ぎること」のみに全知力と体力を集中させていた。いわば、逆バージョンの鬼ごっこみたいな状態が日々繰り広げられていたわけである。
「ただし、(ラグビーは)『やる』というよりは『見る』スポーツだと感じている人が圧倒的に多いだろう。野球やサッカーは何らかの機会でやったことがあっても、ラグビーとなると極端にプレーした(ことがある)人数は少なくなる」
……と、前出の松原さんも指摘している。たしかに、ラグビーというスポーツは(少なくとも日本では)興味のある人と興味のない人の差がじつに激しい印象がある。1年間やり通した経験のある(?)私でさえ、その魅力を理解することができなかった。唯一理解できたのは「半端な心がまえと身体能力でこなせるスポーツじゃない」という事実だけで、自身が気軽にチャレンジできないスポーツに、やはり多くの人は、なかなか感情移入もできないのではなかろうか。あと、野球には『巨人の星』『キャプテン』…etc.、サッカーには『キャプテン翼』、バスケットボールには『スラムダンク』、テニスには『テニスの王子様』……と、それぞれに国民的人気を博した漫画があるが、ラグビーにはそれがないのも“にわかファン”の獲得を困難としている遠因があるのかもしれない。
ちなみに、アジア初のラグビーワールドカップ開催もまもなくに迫りつつ昨今──去年W杯関連のお仕事をさせていただいた縁もあって、私は心からその成功を願ってはいるのだけれど……。もっとももっと盛り上げていきましょうよ!!!