「ひきこもり」という表現が一般的になって約20年。
【ひきこもる人たち Vol.02】「ひきこもり」はいまの時代特有の現象?
ひきこもりの歴史をさかのぼると、「不登校」に行き着くのかもしれない。70年代には「登校拒否」と呼ばれていたが、その後、不登校と言葉は変化した。当時は自ら学校へ行くのを拒否していたが、行きたいのにいじめの問題などで行けない人が出てきたために「不登校」と、言葉と認識が変わっていったのではないだろうか。
■昔もひきこもりはいたのか
夏目漱石は「高等遊民」という言葉を小説の中で使っていた。働かずにぷらぷらと遊んでいた若者は、昔からいたのだろう。昭和時代の後半であっても、近所に何をやっているのかわからないが働いているようには見えない若い者がいた記憶がある。それがニートと呼ばれる人たちの元祖かもしれない。
ただ、ひきこもりという表現が浸透しはじめたのは2000年代に入ってからだろう。学校へ行かない、働かないというだけではなく、「家にひきこもる」という特性が取りざたされ始めたのは。2000年に新潟で少女監禁事件が起こったときだ。犯人は「ひきこもりだ」という報道がなされた。
それ以降も、ひきこもりの男性が両親に働くように言われて殺してしまったとか、高齢の両親が働かない息子の将来を悲観して殺害したとか、そんな事件がときどきニュースになっている。それゆえ、ひきこもりは事件を起こす、怖いというイメージが広まっているように思う。
だが実際に、今も基本的にひきこもりがちだとか、断続的にひきこもっているという人たちに話を聞いてみると、彼らの多くは非常に頭がよく(中には国立大や有名私立大を卒業、中退している人もいる)、読書量がハンパではないので知識も豊富だ。自分と向き合う時間が長いため、自分なりの哲学を持っている人も多い。
「ひきこもりは、ひとりひとりが哲学者だと思う」
そう言った当事者もいる。
■共通点はあるか
彼らと話していていつも思うのは、非常に居心地がいいことである。彼らは人を糾弾しない。責めたりもしない。口調は常にソフトで、人の話をじっくり聞いてくれる。
ひきこもりの人たちは、もっとコミュニケーションをとれるようにしたほうがいい、という意見をどこかで読んだが大間違いだと思う。もちろん個人差はあるだろうが、おしなべて一般社会人よりずっと表現力が豊かだし、コミュニケーションはとりやすい。
彼らに共通しているのは、「繊細なこと」だ。持って生まれた繊細さに、成長していく上でいじめや親の過干渉や過保護など方向性の違った愛情などにさらされたり取り込まれたりして、繊細さや過敏さに加速がかかっている。
そして一方で、いつでも人に不快な思いをさせないかどうかを非常に気にしている。「ひきこもってしまった“こんな自分”」と、「それでも人の役に立ちたい自分」が常に葛藤している状態にあるといってもいいと思う。その葛藤や迷いをストレートに出すと、人とのコミュニケーションに支障をきたすとわかっているので、自虐ネタにして笑わせようとすることもある。なぜそうなってしまうのか。やはり繊細だからである。コミュニケーションに支障をきたすと、自罰的な彼らは「自分が悪い」と思ってしまう。そうやって傷ついてきた長い年月があるから、自虐で笑いをとろうとするのだ。それは自分自身と向き合った時間が長く深いためにできることだ。一般の社会人は、ほとんど自己ときちんと向き合わないままに社会に出ていく。善し悪しの問題ではないが、自分と向き合う長い時間は、おそらく想像できないほどつらいものだったと思う。
だから彼らは、自分を表現することに長けている。そして非常にきまじめな人が多いので、何かするのに「いいかげん」ではすまない。約束の時間に遅れたり、ときには仮病を使って仕事をさぼったりするのは、私の見解では、「まあ、よくあるよね」となるのだが、彼らは常に「満点でなければいけない」と思っているため、いいかげんに生きることができないのだ。自分自身に厳しい。満点でなければ、やる意味がないと思ってしまうのだろう。だから時間に遅れたら行かないほうがいいかもしれない、と考え込んで行けなくなるのも想像に難くない。
そして多くの当事者は、親子関係に問題を抱えて育っている。
虐待はもとより、過干渉、過保護、支配に苦しみながら成長してきた。そして彼らは言うのだ。
「親に褒められたことは一度もない」と。
「それだけはひきこもりの共通点だと思う。両親あるいは母親に、一度も褒められたことがない。だからベースとしての自己肯定ができずにいる」
たとえのちに社会に出て人とつながりを持てたとしても、ベースとなる自己肯定は身につけられないままなのだ。自己肯定は二層で成り立っている。