<悼む>
中山美穂をインタビューする。1997年(平9)、竹中直人の監督作品「東京日和」に主演したタイミングだった。
「毎度-」から12年。絶頂のアイドルから「女優」の肩書が似合い始めたころだった。取材にはデスクと中堅映画担当、若手の私と、社内で最も腕が立つカメラマンが向かった。単独取材が少なく、めったにない機会とばかりに異例の取材班が組まれた。
芸能界でささやかれた、気むずかしい美穂さんに粗相があってはいけない。そんな配慮を装って、ただ「中山美穂」に会いたかったのが本音の4人だった。
広い撮影スタジオの真ん中で、取材と撮影を同時進行した。先輩記者が緊張したのか、ささやくように質問を始めた。美穂さんがささやき返す。すると、シャッターを押したと同時に「ピピピピッ」と大きなアラーム音がした。気合を入れたカメラマンが、社内でも珍しかった大型の照明機材を使ったため、シャッターのたびにごう音が響いた。
完全に粗相だ…と思ったが、美穂さんはそれすら楽しそうにささやき続けるから、取材も続行した。超多忙だったころと違い、年に1、2カ月は海外で過ごすようになり「1つ1つの仕事にありったけのエネルギーが費やせるようになった」と話した。「ミポリン」が「中山美穂」になり、最も美しかった時期だった。
ごう音にかき消されて、録音はよく聞こえなかったけど、素顔と充実ぶりが書き込まれた。そして、宮川勝也カメラマンの写真だ。
日刊スポーツ史上に最も美しい1枚だと、私は思っている。合掌。【元芸能担当・久我悟】